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「子供」のダブルスタンダード


 反動的な人間は無自覚のダブルスタンダードを持っている。と前に私は書いた事がある。なぜダブルスタンダードであるのかと言えば、彼らは一方で西欧的な価値観をしっかりと内面化しておきながら、他方ではそうした価値観に毒されていない自分たち固有の伝統を保守しなければならぬと、休む暇もなく叫び続けているからである。彼らはこれといった自覚も無く、そうしたダブルスタンダードの間で自身を引き裂いている。

 では、無自覚なダブルスタンダードとは異なる「まともな」ダブルスタンダードはあるのだろうか。強く自覚されたダブルスタンダード、つまり「嘘だと知りつつもあえてそれに熱中する」という態度こそ、そうした「まともな」ダブルスタンダードであるというのが私の考えである。そして「子供」の「遊び」がその好例だと私は考える。








ニヒリズムと絶対主義


 しかし、そもそもなぜそうしたダブルスタンダードが私たちにとって重要だというのか。一言でいえば、それが、ニヒリズムと絶対主義の双方への批判を可能にするからである。

 私たちは今、ニヒリズムと絶対主義という両極端の分かれ道に立っている。ニヒリズムの側には極端な価値相対主義や俗流ポストモダニズムなどが控えており、絶対主義の側には排外的ナショナリズムや宗教原理主義などが控えている。ニヒリズムは「真実は無く、許されぬことなどない」と自嘲し、絶対主義は「我こそが真理であり、それ以外の真理は無い」と嘯く。どちらにも未来が無いことは言うまでもない。ニヒリズムは、「あらゆる価値の価値喪失」という泥濘から永遠に抜け出せず、絶対主義は既に失効した価値観を何とか蘇生させようとする自己欺瞞に陥っているからである。

 だから、私たちは両者のどちらも退けなくてはならない。ではニヒリズムとも絶対主義とも異なる第三の道とは何か。ニーチェ的な意味での「子供」がそれである。「子供」のごとく真剣に「遊ぶ」という態度がそれである。




子供の遊び


 子供の振る舞いに注目してみよう。皆さんは「ドロケイ」という遊びをまだ覚えているだろうか。これは、子供が二組に分かれて、一方が泥棒(ドロ)に他方が警察(ケイ)に成りきって、隠れたり、追いかけたり、捕まえたり、捕まった他の「泥棒」を助けたりして楽しむ、鬼ごっこの一種である。

 当然だが、「ドロケイ」に参加している子供たちは、自分たちが行っているものは単なるゲームであり、自分たちが本当の泥棒や警察ではないという意識を、しっかりと保持している。「警察にタッチされた鬼は『牢屋』というスペースに移動しなければいけない」だとか「全ての泥棒が捕まったら警察側の勝ち」だとかいったルールが、自分たちが気儘に定めたお約束事に過ぎないことを片時も忘れてはいないのである。

 しかし、それと同時に、「ドロケイ」に参加してる子供たちは熱中して、あるいは必死にその遊びに参加している。本物のスリルを、胸躍る勝利感を、身を裂くような敗北の悔しさを、味わっている。だから、こうした遊びにおいて、これまでの友情が一層強まることもあれば、何らかの理由で大喧嘩になることもあるだろうし、ルール違反をした他の子供に対する制裁なども起きるであろう。彼ら子供にとって、こうした遊びに熱中している時ほど、世界や自分の人生が有意味に映る瞬間は無いのである。




嘘だと知りつつも、あえてそれに熱中する


 もうお分かりかもしれないが、こうした子供の振る舞いは、ニヒリズムからも絶対主義からも逃れることに成功している。子供は「遊び」のルールが単なるその場限りの決まり事であることを理解している。時と場合に応じてそのルールをいくらでも変更してよいことを心得ている。彼らは病的な絶対主義者とは異なり、自分たちが信じている価値観が普遍的に正しく無時間的に妥当するなどといった「幼稚」な信念とはどこまでも無縁なのである。

 それと同時に、彼らはニヒリズムに陥ることもない。絶対的に普遍的であり、客観的であり、無時間的でない価値観など価値観に値しないといったパラノイア的な態度を、きっと子供は笑うであろう。たとえゲームのルールがその場限りのものであろうと、一旦そのゲームに参加した以上、ゲーム内の役割を真剣に演じて熱中すること以外に、人生の意味などといったものが無いことを本能的に見抜いているからである。

 子供の振る舞いに見られる「嘘だと知りつつも、あえてそれに熱中する」というこの態度こそ、旧態依然の価値観を空しく保守することからも、あらゆる既成の価値観を破壊し尽くす絶望的な態度からも逃れるができる唯一の道なのである。ニーチェが、「成熟とは、子供のとき遊戯の際に示したあの真剣味を再び見出したことである」と書いた理由はここにあるのだ。




命がけでゲームをプレイせよ


 この「嘘だと知りつつも、あえてそれに熱中する」態度は様々な問題にも応用できるだろう。例えば、若者はどう生きるべきかという問題にも。

 よく若者向けに、「新しい時代を切り開くのは君たちだ」といった空疎なキャッチコピーが向けられることがある。「新しい」という言葉が一時的・表面的な変化以上のものを指すとしたら、こうしたキャッチコピーはどれも真っ赤の嘘である。人々の価値観を根本的に転換させ、これまでの過去の世代とはまるっきり異なった変化を起こすような偉業など、数百年に一回あるかないかであり、そうした偉業を果たす人間はおそらく無自覚にそれを成すであろう。だから、このキャッチコピーを素直に信じ、あるいは信じるだけでなくそれに偏執してしまうとしたら、それは非常に不幸なことである。

 しかし、こうした嘘を信じでもしない限り、人は何か新しい物事に挑戦する勇気やモチベーションを湧き起こすことが難しいのもまた事実である。だから、結局若者は、「新しい時代を切り開くのは君たちだ」といった嘘を「嘘だと知りつつも、あえてそれに熱中する」しかない。実はそれが単なるゲーム・遊びにしか過ぎないとしても、それを真剣に、それこそ命をかけてプレイすることによってしか、見えてこないものがある。たとえそのゲームにおいて何かに躓こうと、彼は人生そのものに絶望することなどもう決して無いだろう。彼はドロケイにおいて警察に捕まった、泥棒としての「子供」に過ぎないのだから。



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