見出し画像

〈私〉が死ぬとはどういうことか



 死とは何なのだろうか。他の誰かの死ではなく、この私の死とは一体何なのだろうか。

 家族、友達、恋人、見知らぬ人間。彼らも私と同じようにいずれ死ぬ。そうやって、数えきれない人々が過去から現在に至るまで死んできたのであり、これからの未来においても数えきれない人々が常に死んでいくのだろう。

 しかし、彼らの死と私の死とでは、性格が全く異なる。彼らの死は、それとして、私が認識することができる。しかし、私の死は誰にも認識することができない。なぜなら、私の死を認識している彼らを、私は自分が死んだ後ではもう認識できないからだ。

 いや、それは彼らの死だって同じではないかという反論があるかもしれない。彼らの死だって、「彼らからすれば」、それらを認識することは誰にも出来ない。なぜなら、彼らの死を認識している私を含めた他人を、彼らは自分たちが死んだ後ではもう認識できないからだ。

 私は、いや、そうではないのだと再反論する。確かに、「誰もその死を認識できない」という点では、あらゆる死は同じ本質を持っている。しかし、その同じ本質を持っているあらゆる死の中に、たった一つ、本当にその死を誰一人経験することのできない死があるのだ。他の死なら、この私が実は認識できるにも拘らず。その唯一の死がこの私の死なのである。

 また続けて反論されるかもしれない。いや、「たった一つ、本当にその死を誰一人経験することのできない死がある」ことは認めるが、それはあなたの死ではない。それは、私の死だと。私はそう反論する相手の言うことを否定せざるを得ない。そんなことはあり得ないと。あなたの死は、どこまでいっても、一つの生命の終わりでしかない。あなたの死は、私が必ず確認できるし、あなたが死んでも、別に世界は終わりはしない。あなたの死ではなく、この私の死のみが、世界の終わりを意味するのだと。

 よって、次のことが分かる。死とは、一方では、「それぞれの世界の終わり」であると同時に、他方では、「世界そのものの終わり」である。前者の死が他人の死であるが、後者の死はこの私の死である。そして、この後者の死は、なぜかこの世界にたった一つしか存在しない。

 もし、死を前者の「それぞれの世界の終わり」だと解釈すれば、死への恐怖はある程度緩和される。「当人」にとって恐ろしいものであることに変わりはないが、「残された人々」や自分が何かしらの貢献を果たしてきた世界が自分の死後も存続するのだと思えば、多少死への恐怖と折り合いをつけることができるからである。だから、他人と密接に生活している時や、道で人ごみの中に溶け込む時、私たちは死への恐怖などほとんど感じなくなる。

 しかし、この私の死、「世界そのものの終わり」としての死への恐怖は、そうした小手先のテクニックで消すことはできない。世界が消滅するのなら、残された人々や、あるいは自分の遺伝子だとかが生き延びようと、そんなものは問題にならない。何をもってしても、この究極的な意味での死を、正当化することは不可能である。慰めや報酬や、良い意味に解釈する余地などこれっぽっちも無いのが、「世界そのものの終わり」としての死である。

 私の死は「世界そのものの終わり」なのだが、これは他人からは、あるいはたいていの場合自分自身からも、「それぞれの世界の終わり」として理解されている。そうした理解が間違っていることに、私なら気付く可能性はあるが、他人には無い。他人は原理的に、私の死を「それぞれの世界の終わり」として理解する以外に方法が無いからだ。他人が、「私の死は実は『世界そのものの終わり』なのだ」といくら叫ぼうと、私はそれを意味不明の言葉としてしか理解できないように。

 もうお分かりだと思うが、したがって、根源的な死への恐怖は、独在性の問題なのである。本質的には他の人間と全く同じであるにもかかわらず、なぜかその中に、比類のない仕方で存在している〈私〉がいるからこそ、その〈私〉の死は他人の死と根本的に異なるのである。独在性を持った〈私〉が客観的世界には存在しないように、「世界そのものの終わり」である〈私〉の死も、客観的世界には存在しない。客観的世界においては、私の死も、その他大勢の死と同様、一つの生命の終了でしかないからである。よって、〈私〉の死への根源的な恐怖は実は他人へ伝達できない。常に、その死は「それぞれの世界の終わり」としての死への恐怖であると、誤解されて伝達されるからである。

 しかし、そう誤解されるのもある意味では当然なのである。なぜなら、「世界そのものの終わり」としての〈私〉の死は、これまで一度も存在したことが無いからである。しかし、これから一度だけ、それが起きるのである。それが、〈私〉の死である。その後は、これまでと同様、永遠にそれは起きない。

 だが、〈私〉が死ぬことが「世界そのものの終わり」であるとしたら、それは実は、「全ての終わり」なのではないだろうか。〈私〉が死ぬのだから、その時点における現在が終わることは当然である。そして、〈私〉の死は「世界そのものの終わり」なのだから、当然未来も消滅する。過去も同様である。「世界そのもの」が終わるのだから、過去という存在を保証してた世界が消える以上、過去は無かったことになる。

 いや、「無かったことになる」だと、あまり正確ではない。それだと、「無くなってしまうのだが実はあったのだ」というニュアンスが付きまとうからである。「実はあったのだ」すらもが消滅するのだから、それは端的に無いことと同じである。つまり、過去は無いのである。

 〈私〉の死においては、「実はあったのだが、無かったことにされた」も、「今、無くなってしまった」も、「これから存在するはずなのに、無くなってしまった」も、すべて消滅する。つまり、未来は未来においても存在しないし、現在も実は存在しないし、過去は「かつて」も存在していなかった、のである。

 〈私〉の死において(この「おいて」という言葉を、「〈私〉の死という観点から見た場合」だとか、「〈私〉の死の『後』では」だとかいう風に理解してはいけない。そういった「立ち位置」や「時間軸」が消滅するという事態が、〈私〉の死なのであるから)、過去・現在・未来は存在しない。つまり、存在は存在しない。存在は非存在である。世界は常に存在しない。

 「存在は非存在である」・「世界は常に存在しない」という言葉を、どうか単なる言葉遊びとして理解しないでほしい。〈私〉の死というものを突き詰めて考えてみた場合、どうしても、そうとしか表現できないのだから。


いいなと思ったら応援しよう!