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解釈とは実存である

 ハイデガーは人間(現存在)の存在様式を、実存という言葉で表現する。人間は誰も自分の意志でこの世界に生まれてくることができない。気づいたときに既に常にこの世界の中に存在している。自分の意志ではどうしようもない不可逆的な過程に巻き込まれて、人は存在する。よって、人の存在には、この世界に「投げ込まれている」という被投性が備わっている。

 では、人は単なる受動的な、抗いえない運命に翻弄されるだけの存在なのだろうか。そんなことはない。人は投げ込まれたこの世界において、その自分の立脚している場所から、新しい可能性を自分の前に投げ入れ、その可能性を生きることが出来る。というより、そのような形で実際に常に既に存在している。よって、人は常に既に自分の諸々の可能性を前に投げ入れ(投企)、その諸可能性を存在している。

 つまり、人間は、自分の力では抗いようのない形で世界に投げ込まれているという点で、必然性に服した不自由な存在である。しかし、それと同時に、その投げ込まれた状態から自分の意志で諸々の可能性を投企することが出来るという点で、偶然性を備えた自由な存在でもある。

 この、人間の実存という必然性と偶然性の間のダイナミズムは、何かに似ていないだろうか。それは、テキストの読解と解釈という作業に似ていないだろうか。

 テキストを読み、その解釈を行う際にも、似たようなダイナミズムが存在する。基本的に、テキストをどう読み、どう解釈するかはその人次第である。しかし、ではそのテキストの内容を全く無視していいかというとそうではない。ある程度原文に忠実でありつつ、いかに創造的な解釈や反論を行うかが、読解と解釈における醍醐味である。

 よって、基本的に何でもOK(自由)だが、オリジナルのテキストに一旦は忠実であれという最低限のルールは常に守らないといけない(必然)という意味で、読解と解釈という行為は、人間の実存と同様、自由と必然が交錯する場所を体現している。

 これが自然科学や数学の場合、話は全く違ってくるだろう。自然科学や数学の場合、必然のみが支配することになる。1+1=2という判断は、必然的に進行し、人間が自由に決める余地などそこにはないし、あってもいけない。1+1=という形式は、人間が誕生する以前にも存在しているため、それはこの世界にたまたま投げ込まれた形式などではないし、この形式に2という回答を与えることも、諸々の可能性から自由に選び取った判断というわけではなく、人間の投企とは全く異なる。

 それに対し、ほぼ無限の可能性へ向かって選択すること(投企)が出来るが、出発点は常に既に固定されている(被投性)という意味で、読解と解釈という行為はまさに人間(現存在)の存在様態そのものでもある。というより、実存という形で常に既に存在している人間の存在様式が、その中でシミュレーションされると読解と解釈という形になると言った方が正確だろうか。

 人間(現存在)は実存するというのが正しいのなら、それはそのまま、人間は本質的に解釈する生き物であると言い換えることが出来る。何でもありの盲目的で不毛な自由でも、全てが必然性に服している数学・自然科学の世界でもなく、読解と解釈という営みこそが、必然性との緊張を孕んだ躍動する自由をもたらす。

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