すみませんより、ありがとうを選びたい
見えない世界での生活を始めてみると、とーーーっても多くの場面で誰かに助けてもらうことがあるんです。見える世界に住んでいた時よりも、『ありがとう』を使うことが何百倍にも増えたように感じます。
例えば、僕が信号のある交差点で渡って良いかどうか辺りの音を聞いて様子を伺っていると、通りすがりのおじさん?(見えないのでお兄さんかもしれない、、、。お姉さんではないと思う、、、。)が、『青ですよー』と言いながら僕の横を歩いて行ったんですね。おかげで、僕は安全に通りを渡れましたとさ、、、。
めでたしめでたし。
いやーー、見える人にとっては大したことのない一言なのかもしれないのですが、見えない人にとっては、その日の『神の声』になるかもしれないんですよね。ホント〜にありがたいことです。
『ありがとう』 の瞬間です。
、、、と同時に、見えない世界で生活していると、たくさんたくさん、たーーーくさーーんの
『すみませーーーん』
に囲まれて過ごすことにもなるんですよね。
例えば、
1、外を歩いているときに何かにぶつかって『すみません』→結果的に電柱に謝っていることもたびたびです、、、笑
2、コンビニやスーパーで買い物をするときに、商品を探せないので、店員さんにヘルプをお願いするために、『すみませーん』
3、新宿などの大きな駅のコンコースを歩いている時は、多い時は10人以上の人に接触してしまうので、その度に『すみませーーん』
4、居酒屋に入ったら、店員さんに『オーダーは端末からお願いしまーす』と言われてタブレットを机に置かれ、タッチパネルは見えなければ操作できないので店員さんに注文を口頭でオーダーするしかなく、店員さんを呼ぶために、『すみませーーーーん』
5、電車で席を譲ってもらって、『すみませーーーん』
6、職場で隣席の仲良しな同僚に墨字(通常の印刷物。点字と対比して墨字と呼ぶらしい。)の配布物を読んでもらって、『すみませーーーーん』
7、友達と食事に行って大皿からサラダをっこ皿に取り分けてもらって、『すみませーーーーーん』
8、家で母親に、ご飯おお茶碗によそってもらって、『すみませーーーーーーーん』
いつしか、僕の口からは、半自動的に『すみませーーーん!』がついて出るようになっていました。それと同時に、見える世界に住んでいた時は、こんなにあちこちに謝ったり頼んだりしなくても1人でできたのにと、イライラモヤモヤすることが増えて行きました。
『みなさんにご迷惑をおかけしてすみませーーん。』『生きていて、すみませーーーん』』なんて思ったことも何度もありましたね。
なんでこんなに心が煮詰まってすり減ってしまったんでしょう。?
あなたは、なぜだと思いますか?
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以下は、僕が自問自答しながら見出した見解です。
1、見えなくなってしまったので、誰かの助けを得るためや、ぶつかってしまった時のお詫びなど、そもそも『すみません』と言う頻度が激増した。
2、見えなくなった今の僕の生活はみんなに手間や迷惑をかけていると僕自身が感じている。→『見えていれば1人でできるのに。』という、潜在的なイライラやモヤモヤがぬぐえない。
3、僕の中に相手に手間や迷惑をかけてすまないという感覚があるので、そんなときに使う『すみません』ろいう言葉を多用するようになっていった。
4、『すみません』を日々連発する中で、僕の中で 『僕は、できない奴なんだ。みんなに手間と迷惑ばかりかけている。すみません、すみません、すみなせーーん。』と、負の思考スパイラルにはまり込み、今まで培ってきた自信をことごとく失っていった。
、、、と、こんな感じでしょうかね。
もちろん、『すみません』という言葉は、相手を思いやるために必要な、ステキな日本語、の一つなのですが、僕の場合は、誰かの助けをえる目的で連発し、助けてもらったらもらったで、手間をかけて申し訳ないという負の気持ちでいっぱいになり、またこの言葉を連発するようになっていったのでしょうねー。
まったく、めーーんどくせー思考と言葉のループですわ。
『言霊』ってホントにあるんだなーーと、上野考えに至ったときに深ーーく頷きました。
すみません→相手に手間をかけてしまった。→僕はできないやつなんだな。→できない奴ですみません。
まるで、『負の自己啓発セミナー 全10回』をコンプリートした猛者の思考回路みたいですね。あはははは。
ここまで冷静に自己対話が進んでくると、 『じゃぁ、どーすんべ?』というお題がドーーンと頭の中に居座るんですよね。
これもまた難解で、すぐには『これだ!』には巡り会えないんですよ。
すぐ近くに答えがあるようで、ないようで、、、。昭和のラブコメのコテコテなモヤモヤ主人公のような日々を送っていると、、、
ずーーーっと同じことを考えて探し続けていると、突然『これだ!』が天から降ってきたりするものです。
今回、それは偶然見ていたドラマのワンシーンにあったんですよ。
そのドラマは、コミックが原作で、弱視の女子高生とちょっと不良だけどいいヤツが主人公といえば、みなさんお分かりになると思います。
ドラマの中で、やはり弱視の主人公の親友が、元カレに『わたしは、これからずっと周りの人に謝り続けて生きていかなければならないの?』的なことを言ったんです。(答えのきっかけが見つかった衝撃で、正確さを欠いてごめんちゃぃ。)
この時、僕の中では『謝る→謝矢印感謝→ありがとう。→これかも?』みたいな考えがグルグルし始めたのを思い出します。
先ほど、言霊のお話をしましたが、『謝』という言葉は、『謝罪』にもなり、『感謝』にもなることに改めて気がついたんです。
これまでの僕は、この言葉を『謝罪や陳謝』のような意味で多用し続けた結果、自尊心破壊テロを繰り返していたのですね。
考え方の裏表をひっくり返せば、『すみません。』の多くは、『ありがとう』に替えられるのでは?と、僕は考え始めました。
ちょっとした発想の転換です。
例えば、
1、席を譲ってもらった時の『すみません。』
2、同僚が墨字の配布物を読んでくれた時の『すみません。』
3、母親がお茶碗にご飯をついでくれた時の『すみません。』
これら全部、『ありがとー』に替えられませんか?
『ありがとー』の方が、『すみません』よりも、言った方も言われた方も気持ちよくないですか?
『ありがとー』の言葉は、お互いの心を暖かくしてくれませんか?
僕はついに、『ステキな言霊、ありがとう』に出会えたような気がしています。
これまで、「すみません。』を悪用して自尊心を傷つけてきた僕にとっては、とっても暖かくて大切な言葉になりまっした。
あなたに、『ありがとう。』』
僕にも、『ありがとう。』
ですね。
ただ、、、。頭ではこう考えたくても、なかなか言葉の習慣は変わらないのですわ。
2日前も、東京駅で電車を乗り換える際に迷子になって途方に暮れていたところを優しいお姉さんが助けてくれたのですが、つい、『すみなせーん。』と口走ってしまいました。お姉さんとお別れした後に、心の中で『今のは、すみませんじゃなくて、ありがとーでしょうがーー!』と、自己説教モードに陥ったのは、言うまでもありません。 汗
もちろん、場面によってはすみませんと言うべき時もありますね。ただ、僕は、使える限りは、すみませんよりも、『ありがとう』を選んで使っていきたいなーと思います。まだまだまだまだ、自由に使いこなすには修行が必要ですが、、、。
よーーーーーーし!
明日も、『ありがとー』を使っていくぞーー、オーーーー!