『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』人間の醜さ描いた美しい映像世界と私の痛い恋心、ああ胸が苦しい....。
ゲゲ郎に惚れて、この美しい世界に魅了される
映画「鬼太郎伝説 ゲゲゲの謎」を観に行った。
今、私は完全にゲゲ郎に惚れてしまった。
この映画の登場人物、ゲゲ郎と水木の魅力に取り憑かれてしまった。
そしてゲゲ郎の魅力と共に、私の中に強烈に印象を残したこの映画の美しい世界。
もう吐き出さずにはいられない、この切ない恋心にも似た感情を書き綴ってみた。
恐ろしく美しい映像世界
口パクパク金魚
私は2回映画館に足を運んだ。私がこの映画をなん度も観たいと感じているのは、ひとつひとつの描写がとてつもなく美しいから。たとえば冒頭から水木の務める血液銀行の一室で水木が上司に懇願するシーンで映し出される金魚。水槽の中で口をパクパクさせながらまるで金魚が喋っているかのように見せて、そしてそこから背景が切り替わり、月夜に水木が哭倉村へと向かう列車が映し出され、金魚はそのまま夜空を泳ぎ満月と重なって消えていく。ああ、きれい。こんな表現をするんだ、なんて綺麗なんだろう、と出だしがら心を持って行かれた。
ゆらゆら揺れるゲゲ郎と白目剥いて倒れる水木
水木が禁域である離れ小島へゲゲ郎を追って入って行き、そこで奇妙な現象やたくさんの化け物に襲われるが、ゲゲ郎に助けられる。助け出された水木にゲゲ郎が「妖怪はいる、お前の近くにも必ず。」と言った意味のようなことを言いながら、水木の目の前でゆらゆら、ゆらゆら揺れている。そして水木が白目を剥いて倒れる。ここの描写がなんとも言えず好き。ああ、水木ってもしかすると、その野心家の表面とは裏腹に、とても繊細で感受性の強い人間なのかもしれないと思う。そしてゲゲ郎はやっぱり只者ではない、めちゃくちゃ強いじゃないか、とここで確信する。
血桜の前、赤い背景、水木とゲゲ郎と妻
映画が終盤に差し掛かってきて、ようやくゲゲ郎が奥さんを見つけ、血桜の前で抱きかかえ、そして距離を置いて、その手前でこちらを向いて倒れている水木。その水木の顔には鼻血やいろんな血が流れている。赤い背景、奥に妻を抱きかかえるゲゲ郎、手前には顔に血を流しながらこっちを向いて倒れている水木。この美しく残酷なシーンに私はこの映画の凄さを感じて感動した。特に深い意味を知ろうとはしない。ただただ胸がいっぱいになって苦しかった。そして美しかった。これに理由なんてつけたくなかった。考えるより感じることが何より大事なんだと思った。
時代は変われど、変わらない愛、変わらない悪
私は昭和生まれなので(昭和51年生まれ)今では考えられないが、電車の中に灰皿が設置してあって、みんなタバコを平気で吸っていたのを知っている。本当に昭和、平成、令和と、ものすごい勢いで時代は変化しているし、それに伴って、自らもどんどん変化に合わせて変わって行かなければならないし、そうしなければ生き辛い世の中なのは当然だと思う。
だけど本能的なものというか、生き物の根源的なところというか、そういう変われない所に私たちは強く惹かれるのかもしれない。それがこの映画で私がゲゲ郎に強く惹かれた理由だと思った。ゲゲ郎はただ妻を愛していて、その妻に会いたい、助け出したい。仲間の幽霊族を絶滅に追いやった者たちを許せない。我が子の生まれる未来、そして水木の生きる未来を救いたい。ゲゲ郎はそんな自分の感情にしたがて突き進んでいる。
それとは全く正反対に対照的に存在しているのが哭倉村の閉鎖的な村社会に生きている人間たちだ。彼らは自分の利益だけを追求し、全てを正当化して生きている。何が大切なのかわからなくなってしまっている。欲望を満たしたい、大きな力には抗えない、自分の身を守りたい、何が正しいか、何が間違っているのか、いつの間にか忘れてしまっている。
そしてそっち側の人間だった水木もゲゲ郎と付き合っていくうちに自らの心を取り戻していく。
でも水木が戦争での理不尽で悲惨な体験をしなければ元々こんな人間にはなっていなかったのだと思うし、水木や、そして哭倉村に住む一般の住民たちも被害者なのだと思うと、とてもやるせない。
戦争の悲惨さを、この映画はほんの一部分だけど教えてくれた。それも敵国との間ではなく、同じ国の味方であるべき人間の理不尽な仕打ちを。この狂った時代を生きた、たくさんの犠牲になった方達の上に、今の私たちの平和な毎日があるのだから、私は本当に今を大切に精一杯生きなければいけないと思った。
劇中でゲゲ郎が好奇心旺盛な幼い時弥くんに向かって言った言葉が印象に残っている。正確には覚えてないけど、だいたいこんな意味のことを言っていた。
「未来は自分次第で素晴らしいものに変えられる。ただいつの時代も今のまま頑なに変えたくないと言う者と、変えていきたいと言う者との、せめぎ合いじゃ。」
この作品の時代設定は昭和31年らしいが、いつの時代も、この令和の時代でも同じせめぎ合いは行われているな、と思った。
水木が探し求めていた血液製剤Mの製造方法が、この物語の終盤で明らかになった。この「M」を作るために多くの幽霊族の命が奪われ、多くの人間が血液を抜かれ続け、死ぬことも許されず長い苦しみから解放されずにいた。
私は思った。この世に最も辛い苦しみがあるとすれば、それはその苦しみが永遠に続くことなんじゃないかと。終わりがあるから救われる、終わりがあるから耐えられる、でも終わらない。ああ…こうやって文章を打っていてもしんどくなってきた。
呼び覚まされるノスタルジックな眠っていた記憶
この映画を見終わって、映画館を出て家路についてからも、ずっとゲゲ郎に対する切ない思いが止まらなかった。きっと私以外の多くの映画鑑賞者がそうであったと思う。遡れば10代前半の頃、私は鬼太郎に恋をしていたことを思い出した。夜、夢の中に実体化して出て来た鬼太郎を触った感触を今でも覚えている。(はい、、けっこう重症でした)今になって、なぜあんなに好きだったか説明できない。ただ水木しげる先生の描く漫画の世界が大好きで、ゲゲゲの鬼太郎を読んでいると、なんだか遠い遠い昔に深く魂に刻まれた懐かしい記憶が甦ってきて、とても愛おしいノスタルジックな気持ちになる。登場人物(妖怪)がとても人間臭くて、愛らしくて好きだった。鬼太郎もアニメ版と原作版では少し違っていて、アニメ版の方はヒーロー色が強くて優等生っぽい鬼太郎に対して、原作の方はそれとは逆に鬼太郎はもっと本能的で欲張りで(いつもお腹が空いていて食べ物につられたり、ねずみ男と張り合ったり)不様なところもたくさんあったりした。私はアニメ版の正義のヒーローの鬼太郎も好きだったけど、原作版の生々しい鬼太郎が大好きだった。愛おしくてたまらなかった。だけど悪い妖怪と戦うとなるとすごい強い。最終的には勝つからかっこいい。
ゲゲ郎はこの原作版の鬼太郎になんとなく似てるなと思った。飾ることなく自分に正直で感情や欲望に忠実に生きている。そして勝てるかわからなくても敵に挑んで行く。そしてすごい強い。あの劇中の戦闘シーンは凄かった。大蛇(だったかな?)の尻尾を掴んでぶん回す、人間の足を掴んでぶん回す。刀を歯で噛み砕く、展望台を建物の内側から破壊する。霊力もさることながら力技なところもあり野生味がすごい。あの闘い方カッコ良すぎる、惚れてしまいますよ、そりゃあ。
悲しい過去を背負い犠牲になっていく男たち
戦争を経験し、権力に抗えず悲惨な時代に翻弄され続けた水木と、仲間の幽霊族を一部の権力者の利益のためだけに全て失い、自分の妻までも永い苦しみに追いやられたゲゲ郎。この二人の背景には、私たちにはとうてい想像できない深い悲しみと怒りがあったはずだ。それなのに前を向いて進んで行ける。そして最後は自分はどうなっても構わないと言う心境にまで持っていける。私は感動して涙が止まらなかった。
この令和の時代にこそ観れてよかった名作
昭和のセピアカラーのような、フィルム写真のようなノスタルジー
本当に素晴らしい作品だった。そしてとても感動した。
この映画の雰囲気は、感想の中で多くの方が述べているように、横溝正史の金田一シリーズに似ていると私も思う。(古谷一行さんや石坂浩二さんがやっていた頃の。個人的には渥美清さんのも好きだけど。)私もとても大好きな世界で、あの当時のなんとも言えない暖かみのある映像が好きだ。それをこの令和の時代にまさか映画館で体験することができるなんて思ってもみなかったので、すごく嬉しい。そしてたくさんの方に鑑賞されてSNSではみんなが高評価していて、私は素直にとても嬉しい。
そして音楽も本当に美しかった。エンディングのカランコロンの唄はめちゃくちゃ泣けた。
こんな素晴らしい作品に巡り会えたことに感謝している。