夜の書簡《Ⅱ》
宮島春→黒坂吃
君の抱えている不安について、こんな形で申し訳ないが、私なりの助言をしたい。これがほんの一時でも憂鬱の慰みになればと願っているよ。(一服の清涼剤ともいえるが。)
きみの言う通り、
「人間は悪魔になる素質を持っている(濱口瑛士)」
そしてまた、
「神さまを信じるということは、つまり、天使と悪魔を信じることでもある。」
と言える。
つまり、光があることによって影が生まれるのであり、光は理性、影は本能に喩えることができる。
アンドレ・ジッドは「ドストエフスキー論」において、次のことを語っているよ。
「人は、善意だけでは良い文章を書くことは出来ない。真に悪魔的な感情を持ってこそ、名作が生まれるのである。」
君の信仰に対する疑念は、信仰が揺らいでいるのではなく、地に付いていないゆえに引き起こるものだ。まずは、目の前にあるものについて、疑うことを知り、それが真実かどうか吟味する必要がある。
クジラは、自分が何を食べたのかさえ、知ることはないし、考えもしないだろうからね。
懐疑的な信仰心の持ち主は、真に哲学者であると言えるのではないか?
また、一つの思想に取り憑かれてはいけない。思考は多面的、断層的だからである。
地球が太陽の周りを公転しているのは、思考ではない、至高な関係性によるものであるから。
このように断定する哲学者もいる。
「一日のうちの大半を、読書に費やしている者は、自分でモノを考えることをしなくなる。」
私はいつか君が教えてくれた、チェスタトンの理性についての考察を裏付けるような解釈を導き出すことができたので、ここに記すことにする。
チェスタトン曰く、
「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」
この逆説的展開は見事なものと言わざるを得ない。
しかし、これを更に転回してみよう。
チェスタトンがこの真理を発見する前に至った段階へ遡ることになるよ。
単なる言葉遊びだと、受け取ってもらっても構わないけどね。
「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは、本能以外のあらゆる物を失ったひとである。」
「正常者とは、理性を保った人ではない。正常者とは、理性以外のあらゆる物を保った人である。」
なるほど、こんな風に言い換えても意味が通じるし、もっともらしく見えるということは、どこかに落とし穴があることの証明だ。
しかしながら、結局のところ、チェスタトンの言葉に偽りがないことは明らである。要するに、どんな状態にあっても、「理性」は人間にとって都合の良いものではない、ということになる。
次に、君がもっとも恐れている真理のうちの一つ、「箍」と「罅」の話に移ることにしよう。
この解釈には、表面的・外見的な見方が重視されないことは、チェスタトンの学説が示唆しているので、言うまでもないと思う。
でも、喜んでほしい。
ここで私がやる仕事はほとんどない。
君がすでに多くを書いてくれた。
覚せい剤と精神安定剤のどちらも、生物にもたらす快楽は、決して新鮮なものではなく、すでに内在してある快楽だ。その多くは脳に依存している。
なので、こちらが「箍を嵌められた人間」になる。
そして、「罅が入った頭」というのは、脳に依存せず、その「箍」もしくは「くびき」を打ち壊した結果、生まれた隙間から解放されたもの。なので、若干、狂人なのだが、人間らしく見えることを強調したいのだろう。
チェスタトン以外の哲学者・思想家で、「狂人」について語っている人物がいれば比較できるけれど、この人の解釈だけでは判断できる材料や範囲が限られているので、これ以上、私からは言うことはなさそうだ。
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