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過ぎ去りし日記のページ

今年日記をつけると言い始めスタートし、今日まできちんと書くことができている。



日々その日のページと向き合い、初めは薄かった過ぎ去った日付たちのページがやや厚みを持つようになってきた。



半年過ぎた頃、12月になったとき、過ぎた時間の厚みにまた思うことはあるのだろうかと今から少し思いをはせる。



そしてボクが無精で下敷きを使わないせいで、毎日書いている日記の文字の上にページを振り返ると次の日の筆圧が残る。


だからなんだということなのだけど、こういう一つ一つのことは感じられても本来触れられるものではない。


日記や手帳などなぜ使うのかよくわかっていなかった。


けれど、こうして時の経過が形として見えたり、触れたり、厚みになっていたりすることは人にとってはなんだか生きている実感みたいなもので、時にはもの悲しかったり、寂しかったり、でもなんだかうれしかったり、驚いたり、いろんなことを触れる物質を通して感じられるのかもしれない。


だからこそ日記や手帳、ノートみたいな触ることができて重なっていくものが、デジタル化が進んでもいつまでも大切にされているというのは、わかる気がする。



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
人に読まれる意識をした日記というのが最近はしっくり来ています。




そもそもの継続のコツはボクの場合思い立つところからじぶんでしているかが継続のコツな気がしている。

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