【エンパワメントとしての授業①光の雫を手渡す】
わたしは今、とても幸せだ。
昔からわたしは、
ものすごく繊細で、
傷つきやすくて、
不安がいっぱいで、
自己肯定感が低かった。
親との関係も問題だらけだったし、
生きるのはいつも、苦しいことだった。
それでも、それを
「生きてるってそういうもんだ」と
信じたことはなかった。
生きてるってこんなもんでしょ、
と思ったことはない。
「生きてるって、
こんなはずじゃないはずよね?」
「生きてるって、
もっと幸せなはずだよね?」
という疑問が、
ずうっとわたしを突き動かしてきた。
何十年も、ずっと。
諦めが悪いのは、
わたしの最高の長所のひとつだ。
なんの因果かよく分からないけど、
18のときに宗教学という学問に出会って、
「どうしたら人は
幸せに本質を生きられるか」
をひたすら研究してきた。
でも、ポンコツ学者だったと思う。
いまだに専門用語はよく知らないし、
哲学史もあやふやだ。
担当教授には、
「オチが人生論ぽいので、
もっと哲学理論的なものを」
と言われ、
助教授の先生にも、
「あなたには熱い想いがあるようだけど、
論文は内輪向けのものだから、
そこは割り切ってください」
と言われた。
でも、どうしても割り切れなかった。
わたしにとっては、
哲学も、
宗教学も、
普通に生きている人のためのものだった。
今日起きて、
空を見て、
ご飯をたべて、
そうやって生きている人の、
生きるための「命の雫」にならなければ、
なんの意味もないと思っていた。
生きてることとは、
「分からないもの」といつも隣り合わせだ。
いちばん大事なものはいつだって、
理論だけでは掴めない。
だから、
学問の外に出ることで、
学問を極めたかったのだと思う。
偉そうなのを百も承知でいえば、
外に出ることで、
学問を補完したかったのだと思う。
そして今。
結果は出せたと思う。
人は本当に、幸せになれるのだと、
人生を使って立証できたから。
わたしにとっては、
それが、一番欲しかった研究成果だった。
業績書には書けないけれど、
人類への貢献と思ってやってきたこと。
大袈裟に聞こえるけど、
本気でそう思ってきたし、
いまもそう思ってる。
だから、次は、
伝えてゆくフェーズだと思っている。
手始めにまずは、
今年の4月から、
担当している授業で、
目の前にいる学生たちに向けて。
「エンパワメント」としての授業を、
試しはじめている。
光の玉を手渡す。
ことばで、
存在で、
振動で。
生きることへの希望を、
渡してみている。
この光が、
この人たちの心に伝わって、
灯って、
この人たちの存在を内から照らす、
希望の光になること。
うちなる生命力を引き出し、
ほんものの自分を生きる手助けをすること。
それが、エンパワメントだ。
授業で、
大学の、それも大講義でそれをやる。
それは挑戦ではあるけれど、
でも、
学校はそういう場所であるべきだとも思う。
目の前の人に、
命の雫を、生きていることの甘露を、
丁寧に渡すこと。
そこから、まずは、スタートしています。