世界史人物伝 No.189~192
No.189 ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト
1862(文久2)6月27日~1937(昭和12)8月14日
姓:シェルデルップ(Schjelderup)
夫の姓:ペツォルト(Petzold)
名:ハンカ(Hanka)
性別:女
出身地:ノルウェー、クリスティアンサン
ノルウェーの声楽家(ソプラノ)、ピアニスト。
No.190 ブルーノ・ペツォルト
1973(明治6)8月3日~1949(昭和24)
姓:ペツォルト(Petzold)
名:ブルーノ(Bruno)
性別:男
出身地:ドイツ、ブレスラウ(現在のポーランド、ヴロツワフ)
ドイツのジャーナリスト。仏教研究家、僧侶。
No.191 アルヌルフ・ハイムダール・ペツォルト
1905(明治38)~1980(昭和55)
姓:ペツォルト(Petzold)
名:アルヌルフ(Arnulf)
ミドルネーム:ハイムダール
性別:男
出身地:イギリス、ロンドン
ペツォルト夫妻の息子。建築家。
No.192 ミス・キルバン
?~1911(明治44)以降
姓:キルバン(Kirwan)
名:不明
性別:女
出身地:フランス?
山形県の天童教会の伝道師。
ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトの生涯
夫はドイツの仏教研究者ブルーノ・ペツォルト。
ハンカは、母親からピアノのレッスンを受け、「神童」と称えられた。
1878(明治12)音楽教育のため、両親の支援によってパリに向かい、ピアノを学ぶ。
ドイツのヴァイマルでもピアノを学んだ。
声楽にも興味を抱き、パリで声楽を学んだのち、ドイツのドレスデンでも声楽を学び、ドイツのバイロイトではオペラについて学んだ。
ドイツで「タンホイザー」のエリザベトを歌い、オペラ歌手として大きな成功をおさめる。
1890年代半ば、ライプツィヒで、11歳年下のドイツ人学生ブルーノ・ペツォルトと出会う。
ブルーノは後に、彼女について「ノルウェーの山々の気ままな新鮮さと、パリ仕込みの洗練さとの混合物」と表現している。
結婚し、ドイツ国籍を取得。
結婚後は、最初にパリ(1897~1901)、次にロンドン(1901~1907)に住んだ。
この頃、夫のブルーノはジャーナリストであった。
1908(明治41)ブルーノが外国特派員として、中国の天津(てんしん)に派遣されると、彼女も同行した。
二人の息子、アルヌルフ・ペツォルトは、後に有名な建築家となっている。
1909(明治42)12月、夫と共に来日。
1910(明治43)東京音楽学校教師となり、声楽とピアノを教える。
ほかのドイツ人教師とは異なる方法で、西洋クラシックを教えていたといわれる。
これは、ノルウェーで生まれ、いくつかの国に学び、暮らした経験によるものと思われる。
1924(大正13)3月に退職。
同年、ノルウェー王のホーコン7世より金メダルのリテリリス・エ・アーティバスを授与された。
文化大臣も、正式に感謝の意を表し、銀の赤十字メダルを授与している。
退職後も、自宅で子弟の育成にあたった。
彼女の退職後、ハンカの学生たちは、なでしこ会を設立。
毎年、彼女の名誉のためにお礼のコンサートを開催した。
1928(昭和3)の新聞記事で、彼女は「日本の声楽の創始者」と評されている。
1929(昭和4)家が全焼し、夫のブルーノは、燃えている階段に飛び乗った際に足を骨折してしまった。
この一件を機に、ペツォルト夫妻を支援するチャリティーコンサートが開催された。
1934(昭和9)5月9日には、日本滞在25周年の祝賀コンサートがおこなわれ、生徒や友人たちが祝った。
1937(昭和12)3月、心臓病のため聖路加国際病院に入院し、同年8月に没した。
ハンカは、日本で少なくとも111のコンサートをおこなっている。
現在は、夫と共に比叡山に葬られている。
これは、夫のブルーノが、仏教研究の熱意から、そのまま天台宗に改宗し、僧侶となったことによる。
ブルーノは仏教哲学に関する広範な研究を発表したが、その多くは彼の死後まで出版されなかった。
彼の著作は、現在、オーストラリア国立図書館に保管されている。
ハンカの門下からは、三浦環(みうら・たまき)、柳兼子(やなぎ・かねこ)、清水金太郎(しみず・きんたろう)らが輩出された。
また、日本初のレコード歌手、佐藤千夜子(さとう・ちやこ)も、彼女から声楽を学んでいる。
千夜子に至っては、天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いた、伝道師のミス・キルバンに連れられての上京であった。
ミス・キルバンは名前の読み方から、フランス人女性と思われる。