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叔母の「奈良で舞妓さんしいひんか?」がきっかけで
うちは「住吉大社」で有名な大阪市住吉区で生まれました。
兄弟は姉と兄の三人兄弟で、うちは末っ子です。お正月になると家族で住吉さんに行ったり、兄弟で凧揚げや羽子板をしたりして遊びました。実家は祖 父の代からお米の問屋を営みながら、喫茶店もしていたようです。
祖母は、日本舞踊 若柳流の師匠をしていたようで、和室にはお仏壇と小さな舞台と壁には大きな鏡がある、そんな環境で育ちました。
母が「ママちゃん(祖母)に果物持っていって~」というので、祖母の部屋へ運ぶと、テレビから流れてくる心地よい三味線の音色(今思えばNHKの『芸能花舞台』だったような…)に合わせ、いつも白い顔をした歌舞伎役者か舞踊家のような人が踊っていたような記憶があります。
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ある日、祖母の舞台を見に行った帰り、父が小さなうちを、肩車してくれて、「ママちゃんやで!」と言うので、わけもわからず、舞台を見ていました。
「白い顔した人が踊ってる」としか覚えてません。(笑)
それより、うちの眼には、ロビーに敷き詰められた朱色の地面。まっかな絨毯が印象的でした。
日曜日は稽古日で、和室から、レコードで「白扇」の曲が鳴ります。うちは、和室の障子をソロソロっと開けてのぞきながら、
「ふ~ん。あれが、日本舞踊なんや。面白いんかなぁ?」
と不思議に思ってました。ちなみに、父も日本舞踊をしてたんですが、親子はやりずらかったんかなぁ?祖母には習わず、若い頃は藤間流へ習いに行ってたそうで、お座敷なんかもよくかけてたみたいで、うちよりもよく知っていたようです…。
兄や姉が小学校に進学してからは、末っ子のうちは、保育園から帰ると、いつも一人で着せ替え人形や、ぬいぐるみを並べて遊ぶようになりました。保育園の送り迎えは、父がたいてい、バイクで来てくれました。ときどき、車で迎えに来てくれていた時は、実家の精米所によって、車の中から窓を開けて糠の匂いをかいでいたものです。(笑)
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小学校に上がったころからは、体を動かすのが好きになり、授業がすんだら、鉄棒をしたり、自宅に帰ってからは、一人で、ゴム飛びの練習をしたりしていました。そうそう、ローラースケートもよくしていました。光ゲンジ流行ってましたね~。同級生に負けたくなくて、陰で練習も・・・。
その一方で、読書も好きで、図書室の本はほとんど読破しました。授業参観日は、母に来てほしいとよくお願いしてました。母は、小柄ですが、若い頃はスチールモデル(今でいう企業のチラシ等の広告のモデル)をしていたらしくて、子供のうちが言うのもなんですが、スタイルが良くて、別嬪さんで自慢の母でした。
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高学年になると、男の子っぽかったうちは、「中学校のセーラー服にスカートが嫌ややな~」と思うようになりました。当時は、チェッカーズのフミヤさんのファンで、同じように髪を短くしてたので、よく男の子に間違われたものです。その時の名残りか、今もスカートよりどちらかと言えばパンツスタイルが多いですね~。
病気で学校を休んだ時などは、家が商売をしていたこともあり、一人だとかわいそうだからと、ぬいぐるみを買ってくれて寝ているうちの隣に、並べて寝かしてくれました。姉が、学校から帰ると、「大丈夫かい?」と腹話術でぬいぐるみを持ちながら笑わせてくれました。今は、ぬいぐるみのようにかわいいわんこと暮らしています。
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中学校に入り、チェッカーズや友達の影響で、ロックを聴くようになり、ヘヴィーメタルばかり聞いてました。中学校2年生あたりから、今だから話せるのですが、父におこずかいをせびって、ライブハウスへ!当時はそんな年齢の子がライブハウスに行くのは珍しく、「子供扱いされたくない」という思いから、背伸びして、派手に化粧をして、ちょっと不良だったかも(笑)。
中学校3年になり、進路もそろそろ決めないといけない時期になり、うちは勉強があまり好きではなく、「高校に行きたくないな~」などと思っているときに、
ある日、学校から帰ると遠縁の叔母からが遊びにていました。
そして、その叔母が言い放った一言をうのみにして、
勇気を出し、一歩踏みだした先に、結果、うちが花柳界で働き今年で35年になる芸妓人生が始まったのでした。
その叔母が言った一言が、 「奈良で舞妓さんしいひんか?」
舞妓さんって? うちは、ぜんぜんピンと来なくて、母に聞くと、 「白い化粧して、着物きて座っとく・・・そんなおしごとよ~」などと、 白い化粧?・・・。そういえば、いつも、奈良のばあちゃん(叔母のあだ名)とこに遊びに行くと着物を着たきれいな人がいっぱいいてたことを思い出しました。
「座っとくだけならうちにもできるかな?」
中学を卒業して2週間後、奈良からタクシー2台で迎えに来ました。1台には学校の先生が、心配だからと二人ついてきてくれました。叔母は、 「よく決心したな」 と言ってくれましたが、高校に行ったら、勉強せなあかんし、姉も芸妓をしていたし、嫌になったら辞めればいいか~なんて、軽い気持ちで。今考えると甘い考えでした。 そんな気持ちを知ってか知らずか? うちは、この街、元林院に呼ばれたのでした。
そして、ここからは、うちの修業時代のお話。
この頃、奈良の花街には、「お酌さん」(和装のコンパニオン)、「芸妓さん」はまだかなりの人数いらしゃって、にぎわっておりました。
そんな中、先代の菊水楼の岡本会長が、
「歴史のある奈良で、京都に負けへん、ほんまもんの舞妓をを育てたい!」 という思いから、二人の仕込みがこの街に来ました。
その一人がうちでした。 本来、人見知りで、口下手なうちは、接客が決して向いてるタイプではなく(今もそうかもですが・・・)、それに、中学卒業してすぐこの業界に入ったばっかりのなんも知らんおぼこでしたので、何から何までお稽古、「人付き合い」、お仕事。まず慣れるのに精いっぱいの生活でしたが、不思議と接客やお話が苦手な分、稽古にのめりこんでいきました。
とてもいい時代で、仲のいい先輩芸妓のお姉さんのお供でお座敷についていったときなど、ザルを用意して、
「この子、修行中でいっぱいお稽古代かかるさかい、皆さん、ご祝儀、カンパしたって~」
と皆さんの前を周ってくれたり。
すごい金額のご祝儀を頂いたりしました。
三味線、日本舞踊を一生懸命、毎日毎日、稽古をしておりました。そんな中、二人の舞妓候補のうち、周りに期待されていた方(もう一人の仕込みさん)が辞めていき、この街の未来を期待され、逃げるに逃げられない状況に進んでいくわけですが・・・
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そら、嫌な事、つらいことも、今と違っていっぱいありましたよ。でも、叔母に紹介され、こちらにやってきてるので、もし、うちが中途半端に逃げたり、やめたりしたら、母に叔母がきつく当たらないか?こんなに、周りのみんなに期待されてるのに、その期待を裏切ってはいけない。そして何より、自分で決めて行動したことから、何の結果も出てないの逃げてしまったら、自分の今までの努力が無駄になってしまうのが怖かったという事もあり、今思うと、がんばれたんだと思います。
順風満帆な仕込み時代が始まりかけていた矢先、事件は起こったのです。
うちが所属する 料亭旅館 菊水楼 へ一本の電話。
「菊水は、未成年を座敷にあげてる?」との通報があったと警察から。後にわかるのですが、その頃の法律から現在に至るまで、京都以外の街では、風営法の関係上、18歳以上で、高校生以外でなければ接客の場に出ることができないという事実を。
すぐに、だれが何のために、そんな事をしたのか?というのも発覚します。数名の先輩芸妓が座敷やお客さんをとられたと・・・まったくの言いがかりでしたが、なぜなら、その頃のうちにそんなスキルは何にもありません。
お姉さんたちの焦りもあったんでしょう。やっかみ、妬み、嫉み、女の世界ですからそういったドロドロした世界で生きていたのですが、16歳のうちはそんな事知る由もなく…
しかし、その頃は、菊水の会長もとても、顔が広く仲間も多かったようで、雑誌等のメディア関係へのリークは止めることができたようですが、だからといって、今後どうすればいいのか?
年齢の事は、時間だけでしか解決できないもんです。さすが、会長や周りの大人もうちの事を不憫に思ったのか、
「京都に移籍するか?」などとも尋ねられました。
しかし、大阪から出てきた、この街奈良でせっかくいろいろなお客様に紹介され、この街で頑張るとうちが決心したこともあり、18歳までの2年間、この街で修行して頑張るという決断をしました。今思えば、その決断があったから、日本舞踊にのめり込み、当時、花柳流としては史上最年少で師範のお免状を頂けるまで、精進することができたんだと思います。
「無駄な事なんて何もない」
と思えるようになりました。
そして、苦しい修業時代はここから、約2年間続くことになるのです。
そんなかいあって、年齢が18歳に近づいた頃、舞妓として晴れて「お店出し」を迎えることができました。
元林院史上、あんなに大々的でお金のかかったお店出しは、後にも、先にもなかったそうです。菊水楼の女中さんに100年に1回の お披露目や と言われたのを覚えています。偶然、その頃の映像が残っておりますので、つたない芸ですが、お時間があれば見てみてくださいませ。
そして、舞妓さんとしての人生を歩き出すこととなりました。時代もあり、世の中の景気はまだとても良く、毎日毎日、色んなお座敷をかけていただき、お座敷とお座敷の間に時間を見つけてはお稽古に行くという生活が続きました。
どんだけ忙しかったかというと、面白いエピソードがあるんでお話させていただきますね~。
「給料袋が縦にたったのです」
初めてのお給料日がありました。うちの所属していた置屋さんでは、お給料を手渡しで頂いておりました。「はい、菊乃ちゃん、よく頑張ったね~」と、渡された、紙袋。
「重た~い・・・」
こんなお金見たことなかったんでびっくりしました。そして、テーブルの上に置くとその紙袋が直立しました。そんないい時代のお話です。
ご祝儀も、うちらは、着物襟からお客さんにご祝儀を入れていただきます。ある日、うちが着物を脱いだらドサッとお札や祝儀袋が落ちてきたと、昔の同僚に言われたこともありました。そんな事がまいにちあったのと、応援してくださる粋なお客さんがたくさんいたいい時代でございました。
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そのおかげで、日本舞踊のお舞台も様々な大きな舞台を踏ましていただけましたが、そのお話は、またの機会に・・・。
「石橋をたたいて渡る」
ことも大事かと存じますが、
最近は、
「石橋をたたきすぎて渡れない子」や「石橋をたたいて壊す子」
だったりとか、まずアクション、失敗しても謝れば許してもらえるのが若いときの特権です。それに、失敗してもいいんです。それが経験になるんだから。
ぜひ、やりたいことがあれば、うじうじ考えるより
一歩踏み出してください。
そう切に願う菊乃でした~~おおきに~
長文になってしまいました。(笑)