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”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる

仕事について書こうと思った時に、一番最初に思いついたのは、ミスチルの「彩り」です。


Mr.Children 「彩り」

この歌は自分が中学生の時くらいに、スポーツデポの店内で流れていたのを聞いたのが最初。めっちゃくちゃ良い曲と思って、歌詞の一部分を覚えて、ネットで検索したら、この動画にたどり着いた。

今となっては好みじゃない

「彩り」のような仕事は、個人的には、あんましモチベーションが上がらない。

まだ出会ったことのない人の笑い声を作っていく

個人的には、「知っている人」の笑い声を作っていきたいなと思っている。そういうタイプなので、仕事仲間や仕事相手との関係性は深い方が好き。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。仕事相手は、関係性を築けた子ども達とその保護者。仕事仲間は、相互理解し合っている先生達。しかも、「子ども達15人くらいで3人の先生」という小規模グループ。「浅く広く」の関係ではなくて、「狭く深く」の関係が築けるのは嬉しいし、森の幼稚園ならではの特徴である。

「まだ出会ったことのない人の笑い声を作っていく」というのは、ミスチルのような「歌手」であったり、「製造業」に携わる人向けみたいな感じがする。要するに、「自分の作った商品が、全国に届き、手に取ってくれた人が喜ぶ」みたいな。まぁ、ほとんどの職種ってマス相手なので、”何処の誰かも知らない人”の笑顔を作っていくのが一般的かもしれないですね。

個人的には、自分のやったことで相手が喜ぶ表情を直接見たいという思いがある。「直接見る」というのが、自分の仕事に対する一番の報酬になる。なので、全国に届けるとなると、喜んでる姿は直接見えないので「なんだかな~」と思ってしまう。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。自分がしたことに対して子ども達は直ぐに反応してくれるからだ。基本、子ども達を笑顔にするのが仕事であるから、その表情を直接見れることで、モチベーションが爆上がりする。

もし自分が歌手だったら、大勢のファンの前でライブをするんじゃなくて、「数名のファンと会って、話をして互いを知った後に、一緒にカラオケに行って、そのファンの人達の為に歌ってあげたい」と思っちゃうタイプ。で、「一人一人のファンが喜んでいるのを直接確認することで、どんどん調子を上げていっちゃう」タイプです。

ただ、「彩り」は最高

モノクロの僕の毎日に 少ないけど 赤 黄色 緑

にじんでいても 金 銀 紫

モノクロの僕の毎日に 増やしていく 水色 オレンジ

モノクロの僕の毎日に 頬が染まる 温かなピンク
増やしていく きれいな彩り

仕事を通じて、自分の1日1日に「彩り」をつけるという考え方には、大大大賛成である。

これは、以前に書いた「Der Besuch」に繋がるモノである。

個人的には、「モノクロだったエリーゼ」が、子どもと触れ合うことで、最終的には「頬が染まる 温かなピンク」色になったことは、「彩り」と同じ構図であり、それ故に感動してしまう。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。仕事相手は、子ども達なので、毎日毎日子ども達が僕の人生に彩りを与えてくれるからである。そして、自分が子ども達から彩られた分、子ども達にも「彩り返し」していきたい。

「彩」は素晴らしい漢字ですよね。是非とも、自分の子どもの名前には、この漢字を使いたいですね。「自分の人生を彩り、他人様の人生も彩れる」人間に育ってほしいなと思います。あと、”単色人間”ではつまんないので、色々な経験をして様々な面を持った”彩り人間”に育ってほしいなとも思います。

ケツメイシ 「トレイン」

2007年に発売ということは、自分が中2か中3の時ですね。その頃は、田中慎弥さんの「仕事か趣味か」に凄くハマっていたので、やはり「好きな事を仕事にしたい」という思いがグングン育っていた時期だと思います。

「トレイン」を最初に聞いたのは、CDTVで来週発売の曲を紹介するコーナーでした。その時に、この素敵なPV映像と共に、

動き出せ 僕の中の 少年のようなピュアなハート
飛び出せ 僕の駅へ 草かき分け走り出せ

という歌詞がサビで流れてきて、一瞬で好きになりましたね。もちろん、シングルのCDを買いましたよ!

今でも好みだな


PVの内容が素敵じゃないですか?笑

日々の仕事で悶々としている時に、

忘れていた夢を思い出して、

最終的には、自分の道を歩んでいく・・・

個人的には、これまで仕事をしていた時の心情というのが「早く終われ~」しかなかったので、この悶々とする毎日を死ぬまで送り続けるのはキツいし、嫌だなと思っていました。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。森の幼稚園で実習していた時、はたまた、森のようちえんを訪ねさせてもらった際、一度たりとも「早く終われ~」と感じなかったからである。それよりむしろ、「時間よ、進んでくれるな!」と思い、園の時間が終わった後に子ども達が「キーくん、遊ぼ!」と誘ってくれるのを断ることが、非常につらかった。

多分、「早く終われ~」って思ったことがないというのは、自分にとっての天職であることの証かなと思います。

ただ、「好きな事を仕事にしよう!」とはもう思っていない


昔は「好きな事を仕事にしたい」と考えていたが、今では考え方が変わった。個人的には、「『尊敬』という感情を持てることを仕事にした方が良い」と今は考えている。

なんか、「好き」という感情は「嫌い」を産むが故に、長期的に働けないなと感じています。あと、「好き」っていう表現が、対象の一部分しか見てないみたいなニュアンスが感じられるので、「なぜそれを仕事に?」っていう質問に対して、「好きだからです。」って答えちゃう会話は、なんか深みがないなと感じています。

で、「尊敬」というのは、対象の「好き」も「嫌い」もひっくるめて、尊敬しているという事なので、嫌な部分を見てしまっても耐えることが出来て、長期的に続けられそうだなって感じがします。また、ひっくるめて尊敬してるが故に、対象をしっかりと把握して、「自分独自の信念に基づいてその仕事をしてる」みたいなニュアンスが醸し出されてて、なんか深さを感じます。

A:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもが好きだからです。子ども達の笑顔、遊ぶ姿、成長していく過程、どれも最高ですよね!」

B:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもを尊敬しているからです。もちろん、言う事を聞いてくれなかったり、予想外のことをしでかして困らせられることも多々ありますが、そんなことも含めて、子ども達が私の人生に”彩り”を与えてくれていることに、とても感謝しています。だからこそ、私は尊敬する子ども達と共に時間を過ごせる先生という職業を選び、子ども達がイキイキと遊んで逞しく育つ環境を作って守り、尊敬する子ども達の成長に付き添っていきたいと思っているのです。」

なんか、個人的には、Bの自分でありたいですね。というか、子どもが好きっていう感覚が無いので、端からBしかありえないのだが・・・笑

「キーくんは子どもが好きなん?」って時たま聞かれることがあるんですが、好きと思ったことは1度も無いですね。

結構、「子どもが好きで今は、子どもとかかわる仕事をしてます」って方が多いと思うんですけど、好きっていう感情は裏返せば『嫌い』になる可能性を含んでいると思うので、個人的にはその理由ではやりたくないなと考えています。もちろん、好きなのは良いことだと思うんですけど、好きという思いが強ければ、子どもの良い面にフォーカスしてしまって、良くない面を見た時に自分は耐えられないだろうなと。すぐに、オセロみたく、ひっくり返って嫌いという感情が出てくるだろうなと思ってしまいます。個人的には、長く子どもとかかわっていきたいなと考えているので、子どもが好きという感情で仕事をするのはちょっとリスキーかなと感じました。

個人的には好きという感情ではなくて、持っているのは「尊敬」という感情ですね。尊敬だと、ちょっとやそっとのことでは揺るがないと思うんですよね。嫌いな面を見てしまっても、耐えられるというか。それをひっくるめて尊敬してるわけなので。

やっぱり、子どもという存在自体が単純に凄いと思います。遊びにあれだけ熱中して、無我夢中で日々を生きているのは偉いなぁと感じますね。自分も子ども達みたく、熱中した人生を送りたいと思っているので、子ども達を尊敬してしまうと思います。子どもから大人になるというのは、進化というよりは「退化」な気がしていて(惰性や諦めを良しとして、埋没してしまう感じがあんまし好きではないです)、年をとっても子どもみたいな心を持ち続けて、日々成長していくのが大事じゃないのかなって考えてます。

そう考えているので、尊敬している子ども達と一緒にいれて、しかもお金まで頂けるのは大変有り難いなと思います。尊敬してる子ども達がやさしさで溢れるように、自分の持つやさしさを与えていきたいなと思います。

やさしさで溢れるように by JUJU

幸福とは「愛すること」


ドイツの文学者ヘルマンヘッセの言葉です。

幸福とは愛すること以外の何物でもない。愛することができる人は幸せだ。(Glück ist Liebe, nichts anderes. Wer lieben kann, ist glücklich.)

そして、自分の愛が「ホンモノ」かどうか確かめたい時の指針としては、ベルトルト・ブレヒトの言葉が的確かと☟

愛とは何かを受けとりたいという望みではなく、何かを与えたいという望みである。
(Liebe ist der Wunsch, etwas zu geben, nicht zu erhalten.)

これはまさに、箱の外にいる状態を指しています。

相手のために何かしたいと思うことが、すなはち箱の外に出ることでもあるんだ。

自分の欠点は、すぐに自分の小さな「箱」に入ってしまうことです・・・

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。森の幼稚園で実習していた時、はたまた、森のようちえんを訪ねさせてもらった際、一度たりとも「箱の中に閉じこもった」ことが無いからである。常に、「子ども達が喜んでくれることは何か?」と自分に問い続け、自分なりの愛を子ども達に与えていた。

なぜそれが出来ていたかというと、「子ども達を尊敬していた」からに他ならない。『愛するということ』にて著者のフロムは言う☟

愛の基本的要素「尊敬」。尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のこと。

自分が独立していなければ人を尊敬することはできない。自由であってはじめて人を尊敬できる。

「愛は自由の子」であり、けっして支配の子ではない。

子ども達をしっかり見て、「好き」と「嫌い」を超越した、「尊敬」という視点で子ども達を捉えていたからこそ、子ども達との関係を大切に扱えたのだと思う。

キャリア論、うざい


話変わって、「仕事、志事、私事」とググって出てきたのがコレ☟

一言言うなら、「うざい」である。そんなこと知ったくらいでうまくいくなら誰も苦労せんわ!

別に、良いキャリアを歩むとか、大金稼ぐとかに興味があるわけではないので、個人的にはどうでもいいことである。

そんな「終わりのない欲望」に身を任せるよりも、「自分の人生を後悔無く生ききる」ことを考えた方が有意義だと個人的には思う。

絶対に避けたいことは、死ぬ時に自分の生き様を後悔すること。そうならないように、自分の道を情熱を持って前進していくのみである!

仕事は自分に対する「責任」と「期待」である


今の自分が仕事に対して思うことは、

仕事とは、「自分に対する責任と期待である」ということである。

責任とは、やはり、「プロとしてお金をもらっている以上、それに見合った事を成すというプロ意識」を、”自分で”自分の中に育てること。

他人から言われているようじゃまだまだかなと思うし、他人に植え付けられてしまうと、その人がいない時に手を抜くなんてことも起こり得る。どんな時でもプロでいる為には、”自分で”意識づけて育てていく必要があると思う。

期待とは、「自分が望む方向へ歩んでいる」という将来へのポジティブな気持ちである。

社会人として様々な場所でお世話になったが、この「期待」を持てない所では長く続かなかった。やっぱり、「責任」感だけでは、どうしても自己犠牲になってしまうし、結局は、その責任に押しつぶされてしまうことを学んだ。

責任だけの為に働く毎日は、ミスチルの「彩り」にあるように、”モノクロの毎日”であった。期待があれば、「達成感」とか「充実感」とかを得られるので、自分の人生に彩りがつくのだが、責任感だけで仕事をしていたので、「失意」とか「焦燥」とかしか得られず、自分の毎日から彩りが少しずつ消えていった。

まぁ、責任感は大事だなと思ってますけど、それと同時に、「自分がいなくても会社は問題なく回る」ことも学んだので、一度きりの人生をどれだけガッツけるかが肝かなと思ってます。

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