三島由紀夫のコンプレックスを刺激した映画。死に場所を探す負け組の男たちの最後に見た夢。
「七人の侍」(昭和29年)黒澤明監督作品
黒澤明監督の映画を見渡すと、とにかく「男たち」の魅力が満載。女性がメインの映画はほんの一部。対照的に、女を描いたら一番といえば、溝口健二監督でしょう。
では黒澤はなぜ「男たち」が得意なのか?
武士社会と「御家」はきってもきれないもの。御家に奉仕できてやっと侍の矜持がたちます。
これは現代産業社会でも同じ。組織のパーツとしての生産性が問われるのです。
「お前は会社の役に立っているのか?」
黒澤の時代では男性の話だったけれど、今は女性も同じ。
戦国時代を描いたこの「七人の侍」では、この七人はまるで将棋のコマのようです。
「玉」「飛車」「角」「金」「銀」「桂馬」「香車」。ちょうど7つあるし。
一人ひとり完璧ではない。何か欠けている。あれができればこれができない。しかし、その欠けているところがかけがえのない良さ・強さになるときがあります。
この七人はとにかくキャラ立ちがとてつもない。彼ら七人の総合力で野武士の襲撃を打ち破り、村を守るというミッションを達成するのです。
腕のちがいだけではありません。野武士相手のいくさに参加しようとした動機もそれぞれ。
戦い方が異なるそれぞれのキャラを盤面に縦横に配置して動かしまくる「動」の絵の世界。これが「七人の侍」の最大の魅力です。
若い日は画家を目指していた黒澤。躍動感のある絵のためには登場人物は「男たち」であることが必要だったのです。
このきれいな図式づくりに多大な貢献をした人がいます。
4人の脚本チームでまとめ役を果たした年長の小国英雄です。
この人とにかく将棋の天才。盤を見ずに何人もの相手に打てる達人。
この能力を生かして、話しの筋あわせ、人の動機と行動を深く適合させることに並々ならぬ情熱をもって、黒澤はじめ3人の話のアイデアを競わせます。
人がそう行動する理由を明らかにせよ、といちいち指摘する声が聞こえてくるようです。
黒澤映画は劇画チックで図式的で分かりやすい。これが当時、芸術志向の強かった国内の批評家にたいへんウケがよくありませんでした。
耽美の人、三島由紀夫にとってもそう。
「黒澤映画の思想性は中学生並み」とけなします。
しかし、文芸と映画では持ち場と対象者の幅が違います。物語のところだけ指して批判しても、どうかなあと思います。
映画に出ても大根演技しかできなかったヒガミ?
それとも屈強な男たちに憧れたコンプレックス?
穿ち過ぎを承知でいえば、こうなるのでしょうか?
映画はとにかく絵にならないといけない。2時間ほどで大衆に一気にみせなければならない。純文学と違って読者の鑑賞力に大きく頼れないのです。
力のある読者を想定してゆっくり味わってもらう文芸とは違うのですね。