
平安後期から鎌倉初期の仏画
昨日も吉野家に行って唐揚げを食べてアトリエで制作していただけの1日。
*
印象深かった作品を引き続き挙げていこうと思う。
4.平安後期か鎌倉初期の仏画(作者不詳)
あるコレクターの邸宅で見せていただいたもの。
これを見て僕は日本美術はひっそりとプライベートな空間で見るべきものだと肌で感じた。ガラスケースの冷たい輝きと、和紙や絹のやわらかな風合いとはどうやら相性があまり良くないらしく、掛け軸などを美術館で見ても感動したことがなく、ケースに収められても依然として力を失わないタブロー絵画と比較してどうにも独立した完成度の低いメディアだなとか思っていた。
しかし、和室にて至近距離でまじまじと仏画を見たとき、その絹のしなやかさが手に取るように伝わってきたし、金泥の複雑な照りと截金の繊細さの持つ魅力もかつてないほど実感した。この時代の絵画にはこれほど力があるのだと、考えを新たにした出来事だった。
谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』かなにかで、障子は単独で外界と部屋を隔てていなければならず、障子の奥にガラス戸があるようではその魅力が半減してしまう、というようなことを書いていて、それを読んだとき繊細すぎるだろ…と半ば呆れたことを覚えているが、この仏画の鑑賞を経た今、あながちそれも突飛なものでもないかもしれないと思うようになった。
智積院の長谷川等伯、久蔵の親子の作品を見ることができる収蔵館のようなものがあって、彼らの作品自体は本当に素晴らしいのだけど、展示場所がどうにも上述したような日本美術の魅力を半減させてしまうようなものであるのは残念だ。いちおうは木造で日本式というか、いわゆるホワイトキューブではないのだけれど、その場を規定する枠組みはやはり拭い難く西洋式である。
日本美術においては、本当はすべて至近距離で和室の中で直接手に取って見るのが好ましいのだろうけど保存の観点からそれは現実的ではない。そうするとやはり日本の美術は開かれたものではなく、閉じた楽しみにこそその本領があると考えてしまいたくなる。
複製によって庶民に開かれていたはずの浮世絵も時代を経て貴重なものになれば、博物館に展示されその真価を半減させられるか、あるいは一部の人の手に渡り真価を存分に発揮するものの公に開かれたものではなくなるかという二つの可能性が残るのみである。
たとえ一級品でも日本美術が博物館にある限り、一流の西洋美術にはどうしたって見劣りしてしまう。それは相撲取りが総合格闘技のルールで戦うようなものなのだろう。美術館、博物館で見てもその価値が減じていないと感じた日本美術は松林図屏風くらいだが、それも現代の眼から、特にモダニズム絵画を通過した眼から見たときにどうしても感じてしまう現代性がその自律性に大きく寄与していることは疑い得ない。
*
ゲームアワードを見ながら書いていたらこんな時間になってしまった。日本のゲームの割合が一昔前より増えている気がする。ゲームもそうだがやはり部屋の中でこっそり楽しむものが日本文化の本領なのかもしれない。