現代の教養のための大学入試小論文 #8 ~対話のデザイン~
ごきげんよう。小論ラボの菊池です。
本日は「対話」がテーマです。「対話」というのは、「おしゃべり」ではありません。社会の形成にも貢献するのです。
対話のデザイン
私たちは、様々な社会や共同体に同時に属しており、それらに優劣はない。だが、私たちは社会や共同体の枠組みを限定的に捉え、そのイメージの中に自分自身を位置づけている。世間の評価や他者の目を気にするのは、このイメージに閉じ込められた自己があるからだ。私たちは、実体としての社会や共同体に属しているのではなく、それらのイメージを自分自身の中に作り上げて、あたかも実体であるかのように思い込む反転現象が起きている。
民族や国家といった境界を自明として捉えてはならない。そうすることは思考停止だからだ。それに気づくことで、他者を管理せず、他者から管理されない自由を、対話という活動によって尊重し、自己と他者の存するコミュニティのあり方について責任をもつという本来の市民社会が現れるのではないか。自分の「生きる目的」を考え、他者のせいにせず、ゆるやかな連帯を結ぶ生き方が求められている。自己と他者、個人と社会のつながりを広い意味で考えることが今後の対話のデザインとなるはずだ。
自らの知の形成に立ち会うためには、言語活動の制度化されたマニュアルに頼らず、自分の言葉で語ることが必要だ。その言葉で他者と共有することが個別的な対話のデザインとなる。これは自由そのものであり、自由は創造を生み、社会の豊かさにつながっていく。各々の対話のデザインによって「私」を語りだし、自己と他者が連携し協働できることで、共生社会が回復する。
出典
細川英雄著「対話をデザインする―伝わるとはどういうことか」ちくま新書(2019)から(一部改変)
出題校
島根大学医学部看護学科(前期)
解説
私たちは「日本人」や「会社」、「学校」といったコミュニティに属して生きていますが、得てしてそのコミュニティに自分が存在することを自明として、その中でいかに生き抜くかを考えがちです。そのために、コミュニティ独自の特定の規範に従って生きるように自分を自分で仕向けてしまいます。しかしそれは正しいのか、というのが筆者の主張です。自己と他者、広くは個人と社会というのはそれぞれの独自のつながり方があるはずです。たとえば、学校のこの友人たちとはこのような話をするべきだ、という規範(コード)に囚われると、私たちは逆に学校とはこのようなものだ、と決めつけてしまいます。そのコードから抜け出て、自分自身の言葉で語ること(これが難しいのですが)が、今後の他者との対話に必要であり、それが「対話のデザイン」であると主張しているわけです。入試問題では、オンラインやオフラインでのコミュティへの参加状況のグラフが与えられ、現代社会の人々のコミュニケーションのあり方が問われていました。そもそも「自分の言葉」とは何か、他者と自分を「自分の言葉でつなぐ」ことは果たして可能か、ということを考えてみてもいいかもしれませんね。
拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨
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