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現代の教養のための大学入試小論文 #11 ~「遺体」と日本人の死生観~

ごきげんよう。小論ラボの菊池です。

みなさんは「遺体」という言葉を聞くと、あまりいい印象はもたないかと思います。ただ、「遺体」ひとつをとっても、日本人の死生観が垣間見えます。

キーワード

「遺体」と日本人の死生観

説明・要約

 「遺体」という言葉は人間にしか使われない(動物には「死骸」や「死体」を用いる)。もともと遺体とは、中国では親が遺した「からだ」、つまり子どものこと、自分の「からだ」のことを指していた。今日の日本では死体を敬って用いられる。自分のからだは前の世から「遺された」遺体であり、死によってそれは後の世に「遺していく」遺体でもある。ここには、いのちは連続するという日本人の「いのち観」がある。
 日本人が死んだからだ(死体)に対することばを微妙に使い分けるのは、死あるいは死者に対する伝統的な観念を、今日なお守り続けようとするメンタリティ(心性)の表れといえる。
 日本人は遺体あるいは遺骨にこだわる民族と言われる。生と死は連関している、生から死は段階的に移り変わると考える日本人にとって、死んだばかりのからだつまり遺体はたんなる物質ではない。日本人は「通夜」を重視するし、このときの遺体は生と死の中間的な段階と考える。火葬によって死者が「骨」というまったく生前と異なる姿に変わったとき、はじめてその人の死を「了解」するのだ。

出典

立川昭二『いのちの文化史』、新潮社、2000年、240~244ページ

出題校

山形大学地域教育文化学部児童教育学科(前期)

解説

 課題文によれば、たとえばヨーロッパでは、遺骨を書留郵便で送ってもらうこともあるようです。このように日本人は独特の死生観をもつわけですが、近年では火葬の近代化による迅速化が図られ、その思いも変わっていると課題文で筆者は指摘しています。また、臓器移植においても、遺体と臓器は別物だから成り立つということを述べつつ、遺体から取り出した臓器が、他者の中で「生き続けている」感覚をももつとしています。
 ちなみに、沖縄では埋葬と洗骨の二度の葬儀を行う「二回葬」が行われていたそうです。火葬をしないのですね。アメリカではオハイオ州に「シンシナティ葬儀科学大学」という大学があり、葬儀について科学的に捉えているようです。また、チベットでは鳥に遺体をついばませる「鳥葬」を行い、鳥と共に魂が天空高く飛び立って自然に還ると考えているようです。
 このように、遺体の葬り方一つをとっても、その国や地域の宗教性や文化が反映されているのですね。重要なのは、他の国々や地域の「死者との別れ」も、自分たちのそれも、同等だとみなすことでしょう。同様に、近代化され、死に対する考え方が変わったとしても、そこから安直に「昔はよかった」と考えるのではなく、その時々の人々の考え方を表しているのだと考察することが必要でしょう。

拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨


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菊池秀策
皆さまのサポートで、古今東西の書物を読み、よりよい菊池になりたいと思っております。