現代の教養のための大学入試小論文 #14 ~文章を味わうこと~
ごきげんよう。小論ラボの菊池です。
三島由紀夫の文章から、「文章を味わうことはどういうことか」をテーマにした課題文を扱います。文学系では意外と昔の文章が出題されることがありますね。
キーワード
文章を味わうこと
説明・要約
現代では文章を味わう習慣が少なくなるのは当然である。しかし、昔の人は小説を味わうと言えば、まずは文章を味わったのである。今日の小説の読者にとっては目的地が大切で、その途中のことは気にしない。一方、昔の人は本の中をじっくり自分の足で歩いたといえる。小説は、そのなかでドライブをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡をたどるに過ぎない。しかし小説の中をあるくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈する。昔の人はその織模様を楽しんだ。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びとした。
現代では文章を味わうというよりも、小説を味わうと言われる。文章についてではなく、小説について、それが面白いと言われるのだ。しかし、小説の唯一の実質は文章であり、小説の唯一の材料は言葉なのだといえないだろうか。文章を味わうにあたり、かつてはその微妙な味わいが好まれたものだが、一般の民衆の文章の好みと、微妙な味わいを好む読者の好みが離れているのが現状だ。
西洋の現代文学では、比喩の乱用の上に文学が特色をもっている。それはまた中世の文学伝統が、現代文学のなかに生き生きと生き長らえていることの証拠でもある。一方日本では、一方に漢文の影響からくる極度に圧縮された簡潔な表現、また俳句の伝統からくる先鋭な情緒の裁断、こういう伝統が現代文学にも生きている。われわれの美しい文章のなかには、いかにも現代的に見えながら、なお漢語的簡潔さや俳句的な密度をもったものが少なくない。
結局、文章を味わうということは、長い言葉の伝統を味わうことになる。文章のあらゆる現代的な未来的な相貌の中にも、言葉の深い由緒を探すことになる。文章を味わうことは、われわれの歴史を認識することになるのだ。
出典
三島由紀夫『文章読本』中央公論社
出題校
茨城大学人文社会学部人間文化学科(後期)
解説
出典の三島由紀夫『文章読本』は初出が1959年です。今より60年前にも、文章の味わいがないがしろにされているという意見があったのですね。筆者は嘆くことにとどまらず「文章を味わうことは、歴史を認識することだ」と説いています。確かに、日本の文学作品には、さかのぼれば平安時代から連綿と続く文学の歴史が反映されているはずです。もちろんそれは日本に限られたことではなく、西洋や中国といった長い歴史をもった国々でも同様のことでしょう。文学とは言葉の集積であり、それはとりもなおさず歴史の集合体なのですね。現代はネットが当たり前となり、文章を味わうことより、内容をいかに早く、大量に吸収して処理することが重視されているように感じます。それは私たちの歴史にどのような影響を与えていくのか、興味があるところです。
拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨
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