現代の教養のための大学入試小論文 #16 ~通過儀礼~
ごきげんよう。小論ラボの菊池です。
今回は「通過儀礼」と、それが果たしてきた役割についてです。現代の「通過儀礼」といえば「成人式」などがあるでしょうか。それには深い意味があるようです。
キーワード
通過儀礼:子どもが大人になる過程でおこなわれる行事のこと
説明・要約
かつて存在したが現在は消滅した「通過儀礼」の映像から、一人の人間の生命観が、かつてと今日では違うことに気付かされる。現在の私たちは生命を個体性によって捉える。ふたつの生命は無関係な位置にあるかもしれないし何らかの結びつきをもった関係にあるかもしれない。出発点にあるのは個体としての生命だ。花や動物や人間それぞれに固有の生命があり、全体的世界を個体の生命の集合として捉えるのが現代だ。
しかしそれは近代の産物ではないだろうか。伝統的な精神世界で生きた人々にとっては、個体性をもつ生命だけがすべてではなかった。生命とは全体の結びつきのなかで、ひとつの役割を演じているという生命観があった。個体としての生命観と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが日本の伝統社会だったのだ。
木と森は相互に依存して成り立つように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。伝統社会においては人間もまた、この世界の中にいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬのだが、それでも村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、死を迎える面もある。伝統的な共同体の生命とはそういうものだ。だが、人間は「自我」「私」を持つがゆえに、共同体的生命の世界からはずれた精神や行動をとる。
だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった。それが通過儀礼や年中行事であり、それらを通して人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを再生産してきたのだ。
出典
内山節著「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」
出題校
東京都立大学人文社会学部(後期)
解説
「通過儀礼」とは、「お宮参り」や「お食い初め」「成人式」「長寿の祝い」のような、その人にとって一生に一度しかない儀礼であり、毎年繰り返される年中行事と相まって、その人の死生観や人生観を形成するものです。筆者は、「通過儀礼」に対する眼差しが、昔と今では違うことを指摘しています。全体の中で自分たちが生きているという感覚がなくなり個体的能力が重視されるようになったがゆえに、全体と個人とを結びつけるものだった通過儀礼が形骸化してきていると課題文で述べています。確かに、生活様式の多様化といった言葉のもとで、現代社会を生きる私たちは、通過儀礼を重視することは少なくなったでしょう。筆者によれば、それは全体としての生命共同体との共生を妨げるものです。そもそも現代においてその必要がなくなったから通過儀礼が形骸化したのではないか、という反論も可能です。ただ、集団における個人の人生を形成する手段の喪失だと捉えると、また別の見方も出てきますね。
拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨
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