たとえば死にたいときに
希死念慮、というほどおおげさなことではなく、ほんとうにふわっと「もう死にたいな」と思うことがある。
実際に死のうとはしないし、そんなことを思っているなんて誰にも言わないから、それはただ私の中にたまに浮かび上がるだけの気持ちである。
だから、何食わぬ顔でその気持ちを横目で見ながら、私は仕事をしたり、家族と話したりして時間を過ごす。
「ああ、今日は死にたい気分なのね。たまにあるよね。」という感じ。
その気持ちについてあえて掘り下げたり、すごくナーバスになったり、自分自身を心配したりしない。
家族に対して「あら、今日晩御飯いらないのね」と言うくらいの感じで、心の中のその気持ちを感じながら淡々と日常を送っていく。
そうすると、遅くとも数日後には死にたい気分さんはどこか休憩にいって、この世界で生活していくための諸々のタスクや職場や家での会話や自分自身の独り言なんかで脳内が埋まっていく。
「戻ってきてよ」とも思わないし、「もう戻ってこないで」とも思わない。
もし戻ってきたら、ただ「戻ってきたんだ」というだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。
人生うまくいかないことが多いし、私は対外的には安定したそこそこ幸せそうな人間だけど、心の中までそうとは限らないじゃない。
だからそういう自分にいちいち驚かない。
死んでもいい日もあれば、すがってでも生きていたい日もある自分でいいじゃないか、と今は思う。
かつて私が10代だった頃、私は死にたくなりながら生きることを恐れていた。
10代の私は今よりかなり精神状態が悪かったので、こんな調子じゃ30歳以降は生きられないんじゃないか、と半ば本気で心配していた。
このまま生きていたら絶対にいつか死にたくなる。
死にたいと思いながら地べたに這いつくばるように生きているのはいやだ、と思っていた。
その思いがあったから、私はその後回復することができたわけだが、なんとなく今日も死にたい気分さんを隣に感じていたら、10代の自分が思っていたことをふと思い出した。
そして、歳を取ったんだな、と思った。
私の絶望は私を地べたに這いつくばらせるほどには成長しなかったし、私は私で、這いつくばりたかったら這いつくばったらいいよねと思えるほどには強くなったのだ。
乱暴だけど、生きていて何の意味があるかなんて考えたら大体意味なんてないんじゃないかな。
意味がないけど続けていったら結果的に意味がついてくるのではないのかしら、と少し思う。
だから、判断を保留して生きてりゃ良いんじゃなの、と思う。
でもそれは、私の死にたい気持ちがやわだからかもしれない。
世の中自死を選ぶ人はたくさんいる。
率直に痛ましいな、と思う。
死にたいくらい辛いことがあることを、死ぬことでしか表現できなくなるまで追い詰められたのかと思うと、なんともやるせない。
死ぬくらいなら今やってること全部やめて何日かふらっと出掛けてきたら、と思うけど、そんなのんきな状況ではなくなってしまったのだろう。
でも、生きていたら、ただ息をしてくれているだけでいいと思えるような人に出会えるかもしれないし、自分が誰かのその人になれるかもしれない。
もしくは、今すでにそうなのかもしれない。
もし、誰も自分を必要としていないと思うなら、自分が自分を必要としていることを感じてみたらどうだろう。
殺したいと思える対象になってくれる自分を、憎悪や失望の的になってくれる自分を、きっと自分は必要としているのだから。
最近お風呂であたたまっても、湯冷めする寸前までだらだらしてしまう。
風邪をひいたら大変。
絶望さんも死にたい気分さんもそろそろおやすみなさい。
みんな仲良く眠れますように。