本籍地がびっくりドンキーの私の自己紹介と所信表明
今年の年明け、仲良くしてもらってるお姉さんと麻布十番のイタリアンで「今年の目標は、しれっとnote始めてみて、リアルな知り合いに『この記事書いたのってもしかして……』って身バレすること!」なんて冗談言いながらローマ・ピッツァをパリパリ食していたのですが、正月が明けないうちに達成してしまった。(出願間違えた記事、たくさんの方に読んでいただいたみたいで恐縮です、くれぐれも皆さまお気をつけを……)
今日は明日からも生き抜くにあたり改めて今年の目標を設定しつつ、新しくフォローしてくださった方に自己紹介も兼ねつつ、振り返りを兼ねて、今一度、ここまでの食への執着に関する変遷を書き綴ってみようと思います。
プロローグ
一言でいうと、“食”に執着して生きてます。生きてきた時間を、ありとあらゆる食の在り方に全振りしてきたと思う。お家でご飯もつくるし、Ubereatsもする。近くのスーパーが半額になる時間もチェックしてるし、生産者の方から水揚げしたてのシラウオを直送していただいたりもする。ワンコインランチも食べに行けば、ディナーに家賃くらいのお金も出す。午前の商品開発会議では管理栄養士としてたんぱく質だのビタミンだの言いながら、午後からのCM撮影現場ではカロリー爆弾みたいなチーズを伸ばす。EC販売の健康食品の商品開発をしながら、港区の高級焼肉店のお手伝いもする。働いて、食べて、また働く。好きを仕事にしない方がいいとか言うけど、私にはこれしか無い気がするし、天職だと思っている。
染色体時代
じゃあまず、私が染色体だった頃から振り返ろっか。ママとパパが23歳の時にわたしを授かり婚。すごいライトな感じでこの世に生を授かった。この出来事をママは「結婚式も新婚旅行もドタバタだったけど、お腹の中にいるきこを新婚旅行のハワイに連れていけて嬉しかった〜!」なんて、今でも嬉しそうに言う。こんな風に言われるとできちゃった賜物であるこっち側も悪い気はしないので、肩身狭い思いしている人はマイマムのマインド真似してみて。ちなみに本籍地は2人が同棲してたアパート、取り壊されて今はまさかのびっくりドンキー。すなわち現在本籍地びっくりドンキーの女で憶えてください。(ていうか、まじで本籍地って必要?いつも住所思い出せなくなってコンビニで住民票出して確認してる)
3歳
人の性格というのは、遺伝と環境で決まるというけど、わたしはそのどちらもが「影タイプ」に寄っている思う。
人生一番最初の根暗エピソードのスタートは齢3歳。外で遊ぶ近所のオトモダチを、玄関5cmくらい開けて、隙間からずっと覗いてたらしい。怖すぎ。
小さい頃は周りの友人とのコミュニケーションに大変苦労した。もともとコミュ力が無いのに「ちゃお」も「りぼん」も読んでなくて、「エンジェルブルー」も「メゾピアノ」も着てなくて、「いいとも!」も「学校へ行こう!」も視聴していなかった私は、周囲の子と無難に渡り合う“道具”を持っていなかった。
私の友達は大量の本。なぜか家に大量に本があった。絵本も漫画も小説も実用書もあって、まんべんなく読んだけど、大好きだったのは今でも持ってる「田舎のおばあちゃんの生活事典」だった。正直、文字は漢字含めて相当早くから読めたと思う。
とにかく実用的なものが好きだった。衣食住、特に食は、楽しんだ上で美味しく食べられるというのが私にとってナイスなポイントだった。
休みの日は外に遊びに行くことなく、お酒を嗜むお父さんに「イカを丸ごと買いに行こう」とお願いして、この本を見ながらイカの塩辛作ってた。そのせいで、このページだけ開き跡がついていて、イカのワタと墨でめちゃくちゃ汚れてる。
休み時間は図書館が好きだった。ほぼ全部の本読んだと思う。特にレシピの本は先生に頼んでコピーして持ち帰っていたみたいで、先日実家整理した時にいっぱい出てきて驚いた。小学校での一番好きな過ごし方は、本を借りて、中庭の渡り廊下の塀と物置の間で読む過ごし方だった。図書館よりも誰にも見つからない場所。ダンゴムシがたくさんいた。時々、保健室に行くと言って授業を抜け出してここにいたこともある。わかったさんとこまったさんシリーズを読み漁って、小麦粉とかバターがお菓子になるのが、魔法みたいで素敵だなと思っていた。
小2
小学2年生の時に急性髄膜炎にかかって死にかけた。町医者で風邪診断を受けた数時間後にもらった薬ごと嘔吐、緊急で隣町の大きな病院に運び込まれて発覚。朦朧とする意識の中で、お母さんが先生に「あと数時間遅れてたら……」と言われてた。現代じゃなかったら私は早々にこの世を去り、日本人女性の平均寿命を押し下げてたはず。私くらいの子供が入院するのが珍しかったみたいで、色々と検査値データいっぱいとらせて欲しいと、手に常時5本くらい点滴繋がれていた。完全個室隔離で、かつ、ベッドから動けないので母がテレビカードを買ってくれたのだけど、そのカードで料理番組と主婦向けの通販番組を一日中観た。看護師さんに「もうちょい子供らしい番組観なよ」と言われたけど、学校行ってる時間のテレビ番組、本当に面白かった。お見舞いにきてくれた担任の先生が暇つぶしに……と持ってきてくれた折り紙は、折り紙としての目的を一切果たされることなく、裏面にレシピと、通販番組で見た欲しい商品「くっつかない!フライパン!」とか「ボタンがすぐに留められる!ボタン留めマシン」みたいなのを描き写されるメモ用紙となった。今思えば先生にも折り紙にも悪いことした。
まあ、かまうもんかですよ。肺炎を併発して退院が遅れたけれど、なんとか退院し、初めてもらったお小遣いで買ったのは食品成分表。五訂。何度も本屋に通って立ち読みした一冊。食品を網羅しているこの本が、私にとってかなり魅力的な一冊に見えた。
学校の休み時間は、この本の内容を書き写して遊んでた。怖すぎ。
そして今でも最新版が出たら買ってる。2023年1月現在、最新は八訂。
こんなだから、幼少期の私はそれなりにいじめられもしたし(でしょうね)逆に、上手く喧嘩というものが出来ず、人を無視したり悪口も言ったこともあった。あの頃、本のおかげか少し勉強ができたのと、コミュ障の割に、なぜかモテた。どれくらいモテたかと言うと、中学生まで、人生に3回くるといわれるモテ期を全て使い果たした自覚があるくらいモテた。(まあ本来小2で死んでるはずの設計なのでモテ期の時期がバグってるのも納得がいく計算)気を抜くと“出る杭”になっていた私は、その目立ち具合と、立ち振る舞いのバランスが上手く取れずに苦労した。
テストの時は答えをカンニングさせないと「自分のことしか考えてない」と罵られた。テストで100点を取ると色々悪口を言われるので周りにバレないようコッソリ捨ててたら、先生にバレて、親が呼び出された。先生に「悪いことじゃないんだからこういうのは喜べばいいのよ」なんて言われたけれど、それは先生の世界の話で、当時の私がいた狭い世界線では“悪”だった。
放課後みんながモーニング娘。のダンスを練習する部屋に呼ばれて、15人くらいの女子に「私たち、きこと友達やめることにしたから」と宣言された日は、多分みんなが好きなケンジくんが、私のこと好きかもしれない、みたいな噂が出回ったのが理由だった気がする。学年全体で60人くらいしかいないから15人を敵に回すとなると、それはもう、いわゆる“世界中があなたの敵になったとしても”状態。ケンジくんも別に世界を敵にまわすほど私のこと好きじゃなかったと思う。いつだって恋愛感情は自分勝手に、責任感を置いてけぼりにする。
傘や靴もなくなったし、休んだ日に連絡帳がビリビリになって家に届いたこともあった。連絡帳は、ポストから受け取ったお母さんがショックな顔してたから覚えてる。やった子なんて大体わかるけど、不思議とあまり恨みはなくて、今でも普通に連絡取る。あとこういう時の経験、社会に出て結構役に立つことがあるので、いい経験だったとすら思うこともある。とにかく、親に心配をかけることが一番嫌いだった。何年か前に「置かれた場所で咲きなさい」という本が流行ったけれど、当時の私は、置かれた場所で、自分を押し殺すのに必死だった。
中学
田舎の中学進学は、そう生徒が大きく入れ替わったりしない。真新しさがない毎日で、思春期の子供達のドロっとした感情はどんどん濃度を増していく。私は持ち前の学習能力と小学生のときの数々の経験の賜物で、有事の際もできるだけ目立たずに、かといって消極的すぎない自己表現のバランスをとりつつ(小学生時代を知る友人達からは「キャラ変した」と言われた)、趣味のレシピ蒐集をしながら生き延びたけれど、熾烈な学校の環境に耐えられる子は少なくて、周りがどんどん淘汰されていった。中学2年生のクラスでは30人クラスなのに不登校が11人いて、止められない給食がとにかくめちゃくちゃ余る。私は食パンがあまり得意ではなくて、幼稚園の頃から食べなくて先生とバトルしていたけど、この頃はもう、残したところでバレることもなかった。
でも、私もずっとどこかに救いを求めていたと思う。この頃から、インターネットの世界にハマっていった。当時まだ定額制のインターネットサービスというものがなくて、最初は使いすぎて親に怒られた記憶がある。それでもやめないから、親が折れて定額制に切り替えてくれた。
どういう流れでそこに行き着いたのかはあまり憶えていないけど、当時流行っていた「ふみコミュニティ」という掲示板で、結構長い期間、文字入れ職人をしていた。ディズニーのペア画像とかに、相合傘を描いたりして何ヶ月記念日か描くやつだ。当時。私の手書きの文字が可愛いと結構人気だった。時々指名でスレが立ったりする。自分に出来ることがあるんだと、悪い気がしなかった。
ふみコミュニティにはいわゆるキラキラした子達の板と、私みたいな文字入れだけやる板があって、キラキラしたとこは、もうそれはそれは、勢いが凄かった。「あなたの顔を見て点数つけます」っていう板あったよね。人気の点数つける人がいて、1日の枠があって、枠に入れた人にアドバイスしたりするの。モバスペとか前略プロフィールが流行るよりもうちょい数年前。
ネット社会のいいところは、棲み分けができるところだと思う。学校だと、自分や人の顔の点数が気になる人達と、私みたいなのが一つの部屋で過ごしたり、共同作業をしたりしないといけない。取り繕うのは疲れるし、向こうだって私なんかと共同作業はやりたくないだろう。一緒にいたくない人達と適切に距離を取れる世界は、私の救いだった。
かくしてインターネットの世界に生き始めた私は、完全な昼夜逆転人間となった。昼の世界は全てか煩わしい。中学校は遅刻と早退を重ねて出席日数をやりくりし、日が暮れると共にふみコミュを立ち上げながら「ゴゴ市」「ハボホテル」「リヴリー」といった、戦うことを目的としないタイプのほのぼのRPGを歩き回る。お供は深夜の山田ひさしのラシアンリミテッド。
でも結局、ここでも最終的に料理に流れていって、自分のサイトを持って、お気に入りのレシピを紹介するようになった。蒐集資料が、雑誌のスクラップから、ページの印刷と、自分のサイトへの直リンク貼り(ごめん)へと変わっていく。
そういえばこの頃キャラ変をしてある程度友達もいた私は、世界の料理をネットで調べるのにハマって、バレンタインにチョコじゃなくてロシアの伝統料理ピロシキを作って持って行った。これが周りにはあまりにも衝撃的だったみたいで、今でも友達と会うたび「そういえばさあの時きこピロシキ持ってきたよね」とか「ピロシキ見るときこを思い出す」などと言われる。私の厨二病黒歴史。過去の日記に、当時のスクラップ出てきた時の日記があった。
中3
中3になる頃には、あまりに学校の環境が悪く、他校に転校していく子が多くて、クラスが1つ減った。そしてまさかのクラスの担任の先生も不登校になった。遅刻早退常習犯の私に、担任は個別面談で「別に来んくてええねん学校なんて」って愚痴を言ってた。話を聞きながら、大人は大変だなと思った。この年、崩壊した教育現場の立て直しを公約に挙げた人が市長に当選した。
学校が教育機関として機能していなかったので、学校の代わりに近くの塾に行っていた。行きたい高校とかよくわからなかったので、塾で一緒のクラスだった隣の中学の彼氏と「同じ学校目指して頑張ろ」なんて言ってたのに、いざ受験勉強してみたら、私の成績が思いの外良かった。その結果を見た塾の先生から「女子の進学実績を1人でも出したい高校があるねん……」と言われて、彼氏をさておき、志望校を一つ上げた。先生も頼み方が上手だなと思ったし「俺のこと本当に好き?」と聞かれた当時の彼氏とは別れるきっかけになった。幸い、頼まれた高校は内申点がほとんど重視されなかったので、私の多すぎる遅刻早退欠席が相殺されたのが良かった。
高校
高校に入って、それまで勉強をするのが悪の環境から、どれだけ勉強ができるかが正になる価値観の変わりように目がチカチカした。これが噂に聞く学歴社会。テストの点数が悪いと怒られる世界。ドラマで見てきた世界だった。国語と生物だけ謎に成績が良くて、数学はマジで学年で一番できなかったと思う。自分が生きてきた世界がいかに小さかったのかを思い知った瞬間。そして、皆自分のことで精一杯なのか、周りに無関心なのかわからないけれど変に気を遣わなくても、攻撃されることがなくなったのが一番大きかった。
まじで、生きてる世界が合わないなって子、というか大人もそうだけど、我慢する必要ない。嫌なら、合う世界を探してみるのが良いと思う。そしてもし親という役割をすでに持っている方がここまで読んでくれているとしたら、子どもの教育環境というのは、すこし意識して選択してみてもいいのかもしれない。まあどんな環境でも学びはあるけどね。私は「もっと違った小・中学生時代を送っていたらどうなっていたのかな」と、高校の時、人生に対して周到に準備をしてきた自分とは育ちが違う友人達を見て、一番考えた。今はまあ、これはこれでよかったよな、と思っている。
大学
大学進学も別記事の通りやらかしてスタートして、在学中に1年空白期間ができたりしたけど、まあなんとかなったと思う。空白期間中が勿体無くて、テレビの料理コンテスト番組に出た。新卒はなかなか採用がもらえないという病院管理栄養士になるために、履歴書に箔をつけるためだ。その時審査員をしてくれていた先生のうち、つきぢ田村の三代目、故田村隆先生が大変に可愛がってくださった。書籍が出ると、丁寧に献本を贈ってくださった。
私もご期待に応えたいという気持ちで、季節に一度、バイトを頑張って東京に来て、築地の料亭で2万円くらいのコースを食べてた。本当は2人とか3人とかでいったほうがお店にとっても良いんだろうけど、そういう友達が身近には引き続きあまりいなくて、番組で知り合った、お母さんと同い年くらいのお友達と行ったりした。お伺いするたびに田村さんに「お前、東京に出てこいよ」と言われた。この頃はまだ、東京に出ても、何もできることがなかった。
病院管理栄養士
履歴書に箔をつける活動が功を奏してか、地元の病院で管理栄養士として採用され、なんとか社会人になれた。
病院といっても色々ある。私がいたのは慢性期の病院だ。皆さんのご家族にも、もしかしたら当本人が、血圧が高かったり、血糖が高かったりしないだろうか。それらの疾病が実を結んで(?)脳梗塞だの脳出血だのしてしまった後、社会に復帰するための方の毎日の献立を考えたり、家で何を食べればいいかを考えたり。
あとは、もう帰る予定がない人のごはんを考えたり。
上記は以前、twitterで「嚥下食はただのエサ」って書いてる人がいらして、それに物申しておられた先生に、たまらず送ったリプライ。食べるって尊いのよ。そんなことを学ばせてもらったのがこの病院だった。最近こういう病院増えていると思うので、病院管理栄養士や調理師目指している人で興味があれば探してみて欲しいし、ご家族にあたる方ももし迷ったりしていたら選択肢のひとつとしてご飯にこだわっているところ、というのを考えてみてほしい。そして何よりも、とにかくご自身と、あなたの大切な人の健康を、大切にして欲しいです、皆さん。一緒に美味しいものを心から美味しいと食べられる時間が、いかに有限で貴重なのかを学んだのも病院。
そして、病院に勤めていると、死があまりにも身近で、感覚がおかしくなる。自分がどう死にたいかを考えるきっかけになったのも病院。
給食室と霊安室は、だいたいどこの病院も近いところにあることが多い。お悔やみが重なって霊安室に空きがない日というのは年に数回あって、廊下にご遺体の列ができたりする。私の勤めていた病院は霊安室近くに喫煙所があって、ご遺体が安置されている間騒ぐとご遺族に悪いので、霊安室にご遺体があるときは分かるように院内にクラシックが流れていた。否、そうしないと霊安室横で病院のスタッフは騒げてしまう。驚くかもしれないけれど、これは医療従事者だと皆わかる感覚だと思う。
研ぎ澄まされていく死生観とともに、自分の人生について改めて考える時間が増えた。正直、病院の管理栄養士職は、かなり安定していたと思う。周りの上司達は勤続20年とかザラだったのが、条件の良さを証明していた。(無論いつだって“絶対”はないが)そして毎日食に携われるので、仕事も楽しかった。でも、このまま死ぬのなんかもったいないかも、という気持ちもあった。迷いがあるくらいなら、20代のうちに一旦東京に出てみようと思った。いつか地元に帰ってくるとしても、一度東京に出たことがあるかないかで、予後が変わる気がした。
東京時代
東京に来てすぐは、料理研究家の先生アシスタントについていた。あまり多くは語らないけど、超大変だった。でも、この時に、学生の頃からずっと興味があったCM撮影も、雑誌撮影も、書撮影も校正も経験できたのは、本当に良かったと思う。その後は、病院の管理栄養士の資格とスタイリングの経験を活かして、料理動画をつくったり、商品開発をしたり、講演をしたり。ここ数年は正社員という肩書きも手放した。集団行動マジ無理。ここまでの経験を活かしながら、片足を食、もう片足をインターネットに突っ込んで生きている。
ここ10年、20年でインターネットが、陰側の人間のものから、表の人間の人にも不可欠なツールとなったと思う。そして、表に生きる人間が実はかなり陰の要素を持っていて、それを無限に膨らませてしまうのもインターネットの怖いところだと思った。そして、人があまりにも多い東京では、リアルとインターネットの世界線がより曖昧になって、重なって見えることが増えた。
東京の人の多さには驚く。ぼーっとしてても初対面の人と出会う。そして会いたくないと思えば、こんなに狭いのに、会わずに済む。インターネットと一緒。東京6年目に入るが、田舎に拠点を戻したいと思ったことが今のところ一度もない。そして東京には美味しいものが多い。東京に来て、足りていない社会性というのを少し身につけた気がする。
ご飯を一緒に食べると、その人のルーツが垣間見えるのが好きだ。男癖の悪いギャルが、もんじゃ焼き一緒に行った時に慣れた手つきでもんじゃを作った時に、キュンとする。どれだけ強がっていても、聞き訳が悪くても、全然プライベートを明かさない人でも、そういうところを垣間見ると、心が帰る場所があるんだなと思う。年始にSNSにお雑煮について書く人ほど、やっぱり心の拠り所が多くて、生きる力を感じる。
振り返ってみれば、人付き合いが苦手なくせに、人のために生きてきた気がする。その為になら、進んで自己犠牲を買って出るところがある。そうでないと、自分に価値を見出せなかった。そして、私は未だに、“出る杭”になった時に、打ち付けられるのを怖がる側にいる。でも、慣れ親しんだネットと、リアルが融合した東京で生きながら、もう打たれたって良いんじゃないか、と思うようになった。
目の前のカップ麺が「価値のない食事」と決めるのは誰だろう。少なくとも、私にとってカップヌードルトムヤムクン味は、誰にも譲れない思い出の味だ。人は、帰る場所が多ければ多いほど、強くなれると思う。
日本人は一般的には1日3食食べると思う。1日に3回も意思決定のタイミングがあるルーティーンなんてなかなかない。自己表現の要であるファッションですら普通1日1回だと思う。 何気ないけど日々を支えるような、そんな一食になれば、人は強くなれる気がしている。
自分がそういった作品に支えられてきたように、今度は自分が食を文字や絵で紡いで、今日死にたいと思っている人が、明日もう1日だけ生きてみようかと思えるような、そんな世界線をつくりたいなと思って、今年は頑張ってみようと思う。