誰が金メダルか分からなくなってきた
たくさんの選手がメダルをとるので、誰がとったか分らない程だ!という意味ではない。
「選手」にとっては、4年に一度の晴れ舞台だからなんとか開催してあげてほしいという思いが、存在していたように感じつつ、
「選手」は、スポーツを生業にしている生き物だと、ふと思うようになった。
言い換えると、
4年に1回、大々的に活躍の場があるという、そういう仕事の一種なのだと思う。
少し特殊だ。
それでも、
当たり前のことができなくなり、それになんとか順応しようと生きる生き物や、これまで当たり前のことを作ってきた生き物の方が、何か特別な尊いものに思えてきている。
それらを前にすると、これまで特別がはなってきた光は、弱まってきていることに気づいた。
「選手」は、並大抵の努力を積んできたわけではない。というなら、日々懸命に仕事をする他の生き物(通念では特別視されない仕事に携わる生き物)も、力の使い方は違えど、並大抵の努力で日々を生きていないと思う。汗水流し、汗水はなくても、すり減るほど神経を使っているかも知れず、そうして皆、必死に生きている気がする。
毎日、料理の仕込みをして、開店時間に開け、時にはサーブしたくなくなるような客も相手にすることもあるかも知れない。
毎日、家族のメンバーのために、料理を、弁当を、皿を、服をいつもどおり出てくるように、作り、洗い、を続けているかも知れない。
毎日、入り口にぶら下がるようにして、満員電車で通勤しているかも知れない。ふっと息を漏らしながら、仲間の生き物の食べ物代をかせいでいるかもしれない。
毎日、マスクをつけて、息苦しそうに顔を真っ赤にしたり、頭痛をさせているかも知れない。
夜の仕事も同じだ。どのような種類であれ、どうサーブするのが良いか、日々追求しているかもしれない。
今回のそれとは関係ない、プロやアマの選手も、日々、勝てるように、いかに楽しませられるかと考え、鍛錬しているかも知れない。
音楽、絵、芸事などに関わりながら、一筆一筆、1音1音、一言一言、あーでもないこーでもないと、感じ切りながら生んでいるかも知れない。
仕事だけではない。二度と体験することのできない試合、修学旅行、コンクール、式などの不開催に呆然としながらも、日々生きているかも知れない。
いろんな意味でやっと入学し、パソコンを前に、やれることをやろうと学ぼうとしているかも知れない。
仕事から引退しても、時には、目に見えて社会で活躍していた頃を思いながら、試行錯誤し、日々を生きることの豊かさを模索しているかも知れない。
暑い中、準備段階から含め、成功につながるようにボランティアに努めているかもしれない。
鍛錬をしまくっても、出場できなかったり、メダルに届かなかったかも知れない。
ケアしてもケアしても毎日運ばれてくる生き物が、回復するよう、懸命に取り組んでいるかも知れない。
書ききれていない、すべての生業に関わる生き物たち、
それらは、金メダルに値する。
物理的に金メダルを獲った「選手」もそれと同等だ。
わたしにとっては、
いじめられている子供なんかは通学するだけでも、金メダル以上だ。
いじめられている大人も通勤するだけで、金メダル以上だ。
その瞬間は、オリンピックで金メダルをとった瞬間を見るより、私は胸に込み上げてくるものがある。
当たり前であったあのときや、望んでいないかも知れない不条理な未来の中で、今を懸命に生きるその姿は、以前からあり、
たくさんの胸に金メダルがあったことで、まぶしすぎて、それぞれはっきりと見えていなかったのかも知れない。
本当に、金メダルまみれの世界に気づけて良かったと思っている。
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