“光る待ち受け画面”をやめる日
先週末のオンライン合宿で、ガッツリ三日間、勉強しました
自分のことがよくわかり、これからの自分のあり方が明確になりました
痛みの根っこ、これまでも理解しているつもりでしたが、今回の学びで、それがより洗練されました
僕の痛み、それは “自分の中にある真実を無かったことにする” だとわかりました
「誰かを不快にしてしまうかもしれない自分の真実なんて、存在してはいけないものだ」としていたのです
自分の中にある真実とは、考えて絞り出したものではなく、体験の中で感じとるった智慧のこと
例えば、日常的に何気なく感じる「こうしたほうがいい」とか、「嫌な感じがする」という感覚、心の底から湧き上がる無性にやってみたいこと、こうありたいと思う自分、そういう心の声のようなものです
これまでの僕は、自信を持って自分の真実を受け入れることができませんでした
すごく極端に言うと
自分の意見、やりたいこと、嫌なことを自分から表現せず、相手に関わってもらい、「どうしたの?」「これがやりたいの?」「やりたくないの?」と尋ねてもらい 話を聞いてもらい 賛同してもらい ようやく自分の真実だと思えていました
相手に依存していて、自立できていなかったんです
関わってもらうために、相手に関心を持ってもらう必要があります
そのため、自分の真実を抑え込み、無かったことにして、人の気を引きそうなことをやってきました
人の気を引くために、様々なスキルや能力を身につけ、実践してきました
人を引くための手段だったことが、自分の真実のようになり、それを追いかけ続けていたように思います
例えば、高校や大学の進学、獣医師という仕事を選んだこと、開業後は事業規模の拡大を目指したことなど
心の底からから自分が進みたい道ではないけれど、社会的に認められることで人の気を引くという作戦でした
このブログ、Facebookの投稿も半分は書きたくて書いていますが、半分は人の気を引くためかもしれません
“光る待ち受け画面”になって、こちらから電話をせず、着信があるのをひたすら待っていたのです
“自分の中にある真実を無かったことにする”という痛みは、相手の反応を期待してしまい、“望む反応がない” という痛みとして表面化しました
その痛みを回避するため、望む反応を引き出すコントロールしてきたのです
子供の頃を思い返してもそうでした
小2くらいまで泣き虫だったこともそうです
友達を自分から遊びに誘うこともできませんでした
正解不正解、白黒がはっきりすることは答えられますが、自分の意見を言うことが苦手でした
そんな頃から、自分の中にある真実を無かったことにし、人の気を引くことばかりやってきたんです
40年も、、、
でも、やり直せると思いました
今回の学びの前まで、僕が心の底に持っている痛みは、“ありのままでの自分を明かせばつながれない” だと理解していました
確かにそんな痛みがあります
でも、ニュアンスが微妙にずれていたことがわかりました
“つながる” という言葉に対する僕が持っていたイメージに引っ張られすぎていたように思います
“自分から相手にアプローチして、ありのままの自分を明かし、つながりを作ること” それが、自分にとっての乗り越えるべき関門のように感じていたのです
“望む反応がない” ことが怖い僕は、自分から話しかけるのが苦手な社交性の低い人間です
その関門だと思っていたことを越えるのは、自分の苦手なことを無理してやり遂げなければならない苦行のように感じていました
それよりも、“自分の中にある真実を無かったことにする” のを終わりにして、“自分の中にある真実を表現する” ことならば出来そうだと思ったんです
“表現する” というのは、話すことだけではなく、様々な方法があります
文章で伝えたり、新規事業を立ち上げたり、コミュニティを作ったり、ピアノを弾いたり(最近始めました ^^)、、、、という表現なら、僕にもできます
概念として、こういうことを頭では理解していたつもりだったんですが、身体感覚的には本質からズレた、狭い意味で捉え方をしていたようです
願いを追いかけて無理をするのではなく、“ありのままの自分であるだけでいい” = “真実の表現者であればいいんだ” と思えました
だいぶ気が楽になりました
では、“自分の中にある真実”をどうやって見つけるか?
それは潜在意識の中にあるので、“思い出す”といった方が正しいかもしれません
それは、体験を通して思い出します
思考は使いません 感じるのです
偉そうに書いていますが、僕はすぐに思考に頭が支配されてしまいます (ToT)
不快感情を伴う体験はなかったことにしたくなります
でも、不快な感情も感じていいんです
全ての感情を自分に体験させてあげるのです
そのように感じとった真実を思考によって理解に導き、腹に落ちると、意志の力が湧いてきて、自然と行動に移せるようです
僕の場合、溝落ち〜ヘソのあたりに、小さい子供がいるようなイメージがあります
その子供が僕の真実を握っていて、体験を通して、感情というメッセージを健在意識に届けてくれるようなイメージです
本当は、その子供は、大自然の中を走り回って遊びたいのに、その存在を無視し、暗い部屋に閉じ込めてきました
この学びには事前ワークが出ていて、僕の資質や特性を10名ちょっとの人にヒアリングさせてもらったんですが、
・野原で遊んでいる6歳くらいの子供
・よく動き気前の良いでっかい子供
というようなイメージだという回答を数名からいただきました
やっぱり、僕の日頃の振る舞いの中に、小さい子供が見えるようです
これからは、体験を判断したり、すぐに思考に走るのではなく、感じることによって意思決定をするという習慣をつけたいと思っています
考えて決めるのではなく、当てずっぽうの山勘でもなく、心の声、体の中にいる子供に聞いてみるということです
思考がすぐに立ち上がるので、すぐにはできないかもしれませんが、まずこれを常に意識したいと思います
たぶん、感じ尽くせば、真実を自然に表現できそうな気がします
僕自身が感じとった自分の真実を受け入れ、表現していけば、周囲に影響を与え、好循環が生まれると思います
そして、真実を分かち合えるようになりたいです
最終的に、“何があっても分かり合える” 世界を創造したいです
自分の中にあるとても神聖な“真実”
それを無かったことにしたり、軽く扱ったりせず、我が子のように大切に扱っていきたいと思います
これが3日間の学びです
“つながる” を意識しすぎて、停滞感があったここ数ヶ月でした
やっと、一歩前に進めそうです!
真実の表現者として、ちょっとずつがんばっていきます!!
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