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レ・ミゼラブル 本とミュージカル(3) ミリエル司教

ロンドンでの三回目のミュージカル鑑賞からひとつきが経った。日々色々なことがあるけれど、それでも毎日のようにミュージカルの余韻に浸る時間がある。改めて好きな歌を聴いたり、今までは聞き流していただけの歌の魅力を発見したり、様々な歌手(俳優?)による歌唱を比べて楽しんだり。

ミリエル司教について書き残しておきたいと思う。(1)で書いたように、私にとって「慈悲深さ」という価値観の礎になっている、レ・ミゼラブルの思い出の中で大きな部分を占めている登場人物。

「ファンチーヌ」の題がついた第一部は、ジャン・ヴァルジャンを救ったこのミリエル司教についての記述で始まり、彼がどんな人物なのかが詳しく書かれている。司教の言葉や彼についての描写から、ヴィクトル・ユーゴーの価値観がしっかり見えたり、ときに、見え隠れする。

以下、線を引いたりした部分を書き出してみようと思う。引用はすべて新潮文庫「レ・ミゼラブル」の第一巻からで、括弧書きや太字は私が付けたもの。書き出しに間違いがあるかもしれないが、ご容赦を。

またあるとき、地方のある貴族の死亡通知状を受取ったが、それには個人の爵位のほかに親戚じゅうの封建的、貴族的肩書が長い用紙にずらりと並んでいた。「死とは、実に丈夫な肩をしている!」と彼(司教)は叫んだ。「すばらしい肩書の重荷をしょわされて、平気でいる。こんなふうに、お墓まで虚栄心のために利用するとは、人間ってなんと才知にたけているのだろうか」

24〜25ページ

それにまた、上流の人々にも、下層の人びとにも、全く同じ態度だった。
何事でも、周囲の状況を考えずに、早まって非難することがなかった。彼(司教)はよくこう言っていた。「あやまちが起った筋道を考えてみよう」

27ページ

「社会は自分がつくった暗黒に責任がある。魂が闇にみたされ、そこで罪が犯される。罪人とは罪を犯す人ではなく、闇をつくる人である。」

29ページ

「あれ(死刑執行、またはギロチン)があんなに恐ろしいとは思わなかった。人間の掟に気がつかないほど、神の掟に夢中になるのは間違っている。死は神だけに属している。どんな権利があって、人間はこの未知のものに手を触れるのだろうか?」

33〜34ページ

(愛する人を亡くした人のそばに)
長い間黙って座っていてくれた。彼(司教)は黙っているべきときを知っていたように、また話すべきときも知っていたのだ。ああ、感嘆すべき慰め手よ! 彼は苦しみを忘れさせて、消そうとはせず、苦しみを希望で深め、尊いものにしようとした。彼は言った。「死者を振返る方法に気をつけなさい。朽ちるもののことは考えてはいけない。じっと見つめなさい。天の奥に、最愛の死者の、生きている光が見えるでしょう」
(中略)
また、星を見つめる悲しみを示して、墓穴を見つめる悲しみを、変えさせようと努めた。

34ページ

「いちばん美しい祭壇は」と彼(司教)は言っていた。「慰められた、神に感謝している、不幸な人の心です」

40ページ

「宿を求めて来る者に、その名を尋ねるな。名のりにくい者こそ、避難所を必要とする人だからである」

47ページ

わたしたち自身を恐れよう。偏見、それが泥棒だよ。悪徳、これが人殺しだ。大きな危険は、わたしたちの内部にある。わたしたちの首や財布をねらう者は、大したことはない!わたしたちの魂をねらう者だけを考えよう。

53ページ

良心とは、われわれが生れながらにして持っている学問の量です。

76ページ

司祭の、とくに司教の慈悲の、最初の証拠は、貧しさということである。

91ページ

成功する、ということは、腐敗している天井から、したたり落ちる警告なのである。
 ついでに言うが、成功とはかなりいやらしいものである。成功は価値と似ているように見えるために、人はだまされる。

99ページ

夜空の偉大なながめを前にして、瞑想にふけって眠りの下準備をすることは、彼(司教)によっては、いわば儀式のように思われた。
(中略しますが、この部分はとても壮大です)
散歩をするための小さな庭と、無双にふけるための無限の大空。足もとには、耕して摘み取ることのできるもの、頭上には、研究し瞑想することのできるもの。地上には幾つかの花、大空にはすべての星。

105〜107ページ

 司教が「あなた」という言葉を、重々しい声で優しく、しかも愛想よく言うと、男(ジャン・ヴァルジャン)の顔は明るく輝いた。徒刑囚に「あなた」と言うのは、メデュース号の遭難者に与える一杯の水に相当する。辱められた者は、尊敬にかつえているのだ。

145ページ

「あなた(ジャン・ヴァルジャン)は、悲しみの場所から出て来た。だが、お聞きなさい。天国では、百人の正しい人たちの白い服よりも、悔いあらためた一人の罪人の涙にぬれた顔の方が多くの喜びを受けるでしょう。あなたがその苦しみの場所から、人間にたいする憎しみや怒りの考えを持って出て来たのなら、あなたは憐れむべき人です。好意と優しさと平和の考えを持って出て来たのなら、わたしたちの誰よりもすぐれた人です」

147ページ

(司教の妹が書いた手紙から)
兄はおそらく、ジャン・ヴァルジャンと申すこの男は、あまり自分のみじめさをいつも思っているので、それを紛らわせてやり、たとえ一時でも、普通の人間として扱って、ほかの人間と変りがないことを信じさせてやることがいちばんいいと考えたのでしょう。これこそ本当に慈悲というものではないでしょうか? 奥さま、説教や訓戒やほのめかしなどをしない、こうした思いやりの中に、何か本当に福音書的なものがあるのではないでしょうか? 人に痛いところがあるときは、そこに全然触れないことが、最上の憐れみではないでしょうか?

153ページ

「やあ! あなたでしたね!」(中略)
「お会いできて、嬉しいですよ。ところでね、燭台もあげたんだが、あれもほかのと同じ銀製でね、二百フランにはなりますよ。どうして食器と一緒に持っていかなかったんです?」
「さあ」
「お静かに行きなさい・・・・・・ときに、今度来るときは、ね、庭から入ることはありませんよ。通りの戸口から、いつでも出入りしなさい。昼でも夜でも、掛け金がかけてあるだけですから」

「忘れないでください。決して忘れないでくださいよ。あなたが正直な人間になるために、この銀器を使うとわたしに約束したことを」
「わたしの兄弟のジャン・ヴァルジャンよ、あなたはもう悪の味方ではなく、善の味方です。あなたの魂を、わたしは買います。暗い考えや、破滅の精神から引離して、あなたの魂を神にささげます」

199〜201ページ

この場面で司教役が歌う歌がいつも、何度聴いても心に響く。散歩しながら、運動しながら聴いていても、この部分にくるとどうしても目に涙がたまる。

7:44分あたりから

1:55分あたりから

ロンドンのミュージカルで最初にジャン・ヴァルジャンを演じたコルム・ウィルキンソンが、2012年の映画ではミリエル司教を演じている。

このように、ある役を演じた俳優が後で別の役を演じたりするのも「レ・ミゼラブル」の魅力の一つ。最初にマリユスを演じたマイケル・ボールが後にジャベールを演じたり。


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