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燃え尽き状態のコーチがコーチングする

先日、コーチング実施500時間に到達した!
 
この数字の意味については少し前に書いた
 
この半年(というのは本格的に500時間を目指し始めたのが一月下旬なので)、結構自分を追い詰めていたことが今になって良く分かる。二週間前に大学の一年が終わって仕事が夏休みに入り、日々コーチングに集中できるようになって感じるのは「コーチングだけやってるのにそれでもこんなにも時間がないのか」だ。一日数回のセッション、それぞれ前後に振り返りをしたり、コーチー(クライアント)さんのことを考えて過ごすとあっという間に一日が終わる。

そういうことを、大学の仕事がある時はその合間や夜、また週末にやっていた。大学の仕事は今学期週四日だったとはいえ、週四日では済まないのが常。夜や週末にやっていたことも多くてそれに加えてコーチングのことをやっていたということ。必然的にどちらも「あそこまでやりたいのに出来ていない」という慢性的な消化不良に陥っていたんだと今は分かる。プチ・バーンアウトはすでに何度か経験したが、五月ごろから本格的(っぽい)燃え尽き症候群の症状が出てきた。

夜中にみぞおちが「ズーン」と重たい石を乗せられたように冷たく、痛くて目が覚めた。大学の仕事を夜までやるとその「仕事脳」のスイッチが切れずに寝付けない、寝ても脳が半分起きていて常に何かを考えている様な感じだったり、何度も目が覚めたり、明け方からもう眠りに戻れなかったり。常にイライラしている、誰が何を言っても否定的な返答ばかりが浮かぶ。職場(大学)や同僚、学生のことを考えると動悸がしたり、頭痛がした。中(心理)も外見もゾンビ状態だった。
 
時々、複数のコーチ仲間とコーチングをし合ったりということは続けてきていたので、この間に特定のコーチを雇ってお願いする、ということはしていなかった。仲間にコーチングしてもらうたびにその都度何らかの気づきや学びはもちろんあった。一方、「なぜこんなに無いんだろう?」と多分それを最も必要としていた時に感じたのは、「誰かが常に自分のことを気にかけ、応援していてくれている」という感覚だった。
 
もちろん家族は私が疲労困憊らしいのを見て「大丈夫か?」、「もうノーって言うべきだ」、「このままだとまずいぞ」とか声をかけてくれた。同僚にも一年のバーンアウト休業をして戻ってきた人たちが何人かいて、気にかけ、アドバイスをくれた。でも、家族や同僚のそういう心配とは別のところで、かねてより時々私の行動を見てくれている、要所要所で振り返りの手助けをしてくれている、よって自分が最もそういうサポートを必要としている時に「ここにいるよ」と言って欲しい人たちからは放って置かれている、という気がしていた。その人たちとは、コーチ仲間だったり、癒すことを仕事にしていて私が時々お世話になっている人たちだったり。
 
その感覚自体、バーンアウトの症状の一つなのは自分でも良く分かっていて、「すごいな〜この犠牲者意識、この他人に責任を押し付ける感じ」と頭のどこかで自分で「バーンアウト実況中継」みたいなのをしていた。
 
六月に入って「夏休みまであともう一息だから何とかなるだろう」と思う一方で「もうすでに限界点に達しているのでは」という感覚があって、家庭医やカウンセラー、職場の指定医と話をした上で、職場のマネージャーとチームに「夏まではできるだけリモートで、かつ既に自分のお皿の上にあること(what are already on my plate already)だけに集中させてもらいます」と伝えた。公言したことで一息つけたのも束の間、(それでも仕事は降ってきたり湧いてきたりして)なかなかうまい具合にはいかず、結局は夏休みに入って休暇に旅立っていく同僚を尻目に残った作業をしたりした。
 
自分がバーンアウトの状態でコーチングは出来たのか?
 
自分では、出来たどころかむしろコーチングに向かうこと自体が癒しになり、かえっていいコーチングが出来ているような感覚があった。実際、週平均8から10セッションを半年続けていくうちに、自然に少しずつ、確実にコーチング力が研磨されていったのだと思う。

一方、バーンアウトをあのまま放っておいた状態で今後も続けていたとしたら、癒しだ、研磨などとは言っていられないことに確実に近づいていったとは思う。
 
この経験をへて実感したことの一つは、コーチング会話をしている間だけでなく、セッションとセッションの間も、クライアントさん一人一人のことを思い、寄り添っていきたい、そういうことだった。コーチング会話セッション中や前後に寄り添うことは当然だとしても、オンラインや対面でつながっていない時、それぞれの日常や現場でコーチング会話を(願わくば)糧に日々邁進しようとしいらっしゃるクライアントさんに「本当に」寄り添っていきたい、いこう、そう思っている。
 
今までだって、セッションとセッションの間にクライアントさん一人一人を思い出し、「あのことどうなったかな」とか、「あの一歩を踏み出せてらっしゃるかな」と考えてはいた。でも、それを文字や言葉にして実際に伝えることは必ずしもしていなかった。次のセッションの冒頭で「お元気ですか?いかがでしたか?」とは必ず聞いているわけだし、そして本人が希望した場合には、「あの課題どうなりましたか?」とも尋ねる訳だし・・・という考えがどこかであって。
 
でも、次のコーチングを待たずに改めて文字にしたり言葉にしてこそ、クライアントさんには「一人じゃないですよ」と感じてもらえるのではないか、ということを思った。
 
さて、夏休みに入って二週間が過ぎようとしている。最初の週は時々大学の仕事用のパソコンやスマホを見たけれど、今週は本当に「それ以外のこと」だけをやった。もうだいぶ長く傍に置いたままだったオランダ語の教材すら開いてみることができた。朝は眠れなくてどうぜ起きたんだからと5時頃からするんじゃなくて、ゆっくり朝ごはんを食べてから9時頃に仕事を始めることもできている。
 
何と言っても、そのことを考えた時に、「ズーン」と一瞬にして心が重たくなるだけでなく、体も硬くなるようなことを考えなくていいということの影響は大きい。でも良く考えてみると・・・そんなものは「無い」状態こそ当たり前じゃない?そういう状態こそ目指すべきじゃない?コーチングに集中したり、そのほかにも本当はもっとやりたいこと、今後やっていきたいことを考えたり、やり始めたり。それこそ、大学講師になってこの三年の間、波はあれどずーっと願ってきたことじゃない?
 
コーチングとそれに関することをやったり考えたり、積ん読状態だった本を読んだり、オランダ語の勉強を続けたり、合間に散歩やサイクリングで自然の中で過ごすこと、そういうことだけをやっていくことは、自分さえその気になれば十分可能なことなのでは?心が重くなり、体からも叫び声が聞こえてくるような活動をしているのはなぜ?

そこに意味がある(あった)から。実はこの辺りをこの三年の間、そしてこの半年の間だけでも何度も、コーチ仲間にコーチングしてもらってきた。だから進んではいる。
 
来週後半から本格的な夏休みで、二週間いつもの環境と日常から離れる。コーチングからも休憩する。その貴重な期間をへた後に、自分の心や体は何を言うだろう、バーンアウトはどうなっているだろう、それを今から楽しみにしている。
 
500時間に到達した今、夏休み後にはコーチングへの取り組み方を少し変えてみる予定。九月からの大学の仕事は週三日に戻し、こちらは意識して今までの三年とは違う関わり方にするつもりでいる。
 
こうすることで、コーチングのクライアントさんとも本当に関われるんじゃないか、そう感じている。


日々の散歩で出会える風景。これが日常だなんて!

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