映画の感想

気に入っている映画、じゃなくて、気に入っている映画の「感想文」をまとめておく。先日「ひなぎく」を見たんだけど、それに対する自分の文章が好きだったから、これまでの気に入っている感想文と合わせて残しておきたい。


・ひなぎく(1966)
内容という内容はない、無意味な反逆行為、無秩序な遊戯こそがこの映画の内包するレジスタンスだから……。

ヒステリックな笑い声、ベッドシーツの上の食べ物、食卓の上のファッションショー。終わらない円環の中で退屈に追い付かれる前に何かをしなければと疾走する女の子たちは、岡崎京子の描く女の子に似ている。

と思っていたら、公開当初に岡崎京子がコメントを寄せていた。

「2人の女のこ。2人はこの世の無用の長物で余計ものである。そのことを2人は良く分かっている。役に立たない無力な少女達。だからこそ彼女達は笑う。おしゃれする、お化粧する、男達をだます、走る、ダンスする。遊ぶことだけが彼女たちにできること。愉快なばか騒ぎと絶対に本当のことを言わないこと。それが彼女達の戦闘手段。やつらを「ぎゃふん」と言わせるための。死ネ死ネ死ネ死ネ!分かってるよ。私達だって「生きて」いるのよ。」

レジスタンス!社会主義国家において発禁にされたこの映画は、日本においては脱政治化された「女の子映画」(おそらく、女の子写真と同じ文脈で、女性作家が作った見た目が可愛らしく直情的で自由な“女らしい”映画という含意は多分に含まれていたろう)として紹介されたが、しかし本来の政治性を脱色されてもなお、私は女の子達のエネルギーをカタルシスを以て眺めることができる。

負性を持った側が死ね!と叫びながら秩序侵犯を繰り返す姿がどうして政治性のない「女の子映画」でいられるだろうか?


・ぼくたちの哲学教室(2021)

「大人とは何か?」
よく色々な場面で取り沙汰される問いだけれど、私はこれに対して「未成年に対して責任を持つ20歳以上の者」とだけ答える。

最近私はよく、子どもの教育について考える。私の通った小学校はアクティブラーニングや対話、クリティカルシンキングといったカリキュラムを体現しているような学校だった。私たちはどの授業でも自身の考えを発表し、他人の意見を否定せず、疑問を共有していた。そういった教育を受けた私は今、大学の哲学科に在籍している。

このドキュメンタリーは、私が哲学に惹かれる理由を説明してくれるような映画だった。人間ははるか昔から同じテーマに悩み、対話を繰り返し、真理を求める。他者の考えを尊敬し、既成概念を疑い、自分の言葉で世界を解釈する。これらは切実に、人間らしく生きるために必要なことだと思う。

子供は聡明で、空気を読む。大人が望む正解が分かってしまう、映画を見ても分かるように子供には驚くほど深く考える力が備わっているのに紋切り型の答えを暗記して、それを繰り返すことで自身の思索を忘却の彼方へ捨て去ってしまう。

私は、時間がかかっても、合理的でなくても、自分で考えて自分の言葉で語る哲学的思考の枠組みを子供たちに教えることが教育や社会(大人)の義務だと思う、切実に思う。

・ブエノスアイレス(1997)

5年ぶりに見た。

亡骸の恋ねっ 一緒にいて楽しい時間は一瞬で怒ったり苦しんでいる時間の方が長いの ふたりでいるのにひとりでいるより淋しそうに見える

見終えた後に思ったのは、恋する惑星/天使の涙/2046ではほんの瞬間行きあう人を描いているのに珍しくずっとふたりの関係を撮っているなということ

「第一に彼は“時間”を描く監督だと言えるだろう。そのほとんどは“恋愛の時間”。“期間”を描くことも“時代”を描くこともあるが、マクロに俯瞰するというよりは、ミクロに見つめる、もっと言えば耽溺しながら、より“時間”に密接している。」
「彼が恋愛を描くのは、それが最も艶かしく、伸縮自在だからだろう。」

(新宿シネマートにて展示されていた0620「DVD 動画配信でーた」より)

ウォンカーウァイの作品の好きな要素のひとつ、ミクロな視点、恋愛の持つダイナミズムを体験させてくれる

ブエノスアイレスではうんざりするほどの惰性とへばりついた情と停滞を撮っていたのね 

だからこそ最後の「会おうと思えば会えると確信した」のスピーディさが一層爽やか 見返すまでは悲しい映画という薄ぼやけた記憶だったんだけど、印象変わったね

繰り返しは無い

「やり直そう」のリピートは効かない、いつかビデオテープが擦り切れるように破綻してしまう

それでも、移り変わった時間の先でまた会うことができる

・スモーク(1995)

たまたま行き合った人たち、同時代にせっかく生きているのだからという粋と情 人間には嘘をつく能力がある 人は街に溢れているけど、誰かと出会うことはとても難しい昨今 私たちは隣人のドラマに飢えてる

・スワロウテイル(1996)

監督の映画のテーマは異邦人、という面があると思う どうやっても馴染めないのに突き抜ける勇気もない孤独 青白く白夜のような色彩が美しい、起こっていることは美しくなくとも

・ノクターナル・アニマルズ(2016)

スーザンの世界は、愛に対する不感症の青。

・ドリーマーズ(2003)

彼らが浸ってるのは2人芝居の遊びだし、体だけ大人になってしまった 時は流れるし現実は窓を破ってやってくる

・天使の涙(1995)

期限つきの契約、期限切れのパイン缶と恋

・リリィ・シュシュのすべて(2001)

久しぶりに2回目を見た。

この映画に、痂皮を引き剥がされるような痛みを感じるのは、悪意のすべてが単なる露悪的なものではないから。

最悪の崖っぷちの閉塞感、死がすぐそこにある程の。「ここではないどこかへ」というのを痛いほど渇望する、だからこそ沖縄やリリィシュシュは眩しいほど輝いて見える。学校と家、昔の同級生にすぐ会うほどの街の小ささ。

自分の生きる世界が小さいと気付く前は他人との関係が、それで生じる摩擦の痛みが、本当に苦しくて苦しくて選択肢に死ぬか泣くか叫ぶかしかなかった14歳は覚えがある。本当にたまたま生き延びられただけだと思った。廊下の隅で同級生をリンチしてた男子たちも、先生に雑巾投げつけた子も、自分の悪口をトイレで偶然聞いちゃったあたしも、お昼ご飯の時に蹲って泣いちゃった子も、授業中紙飛行機飛ばしてた子も、たまたま生き延びられただけ。

映像が本当に綺麗で、それだけに絶望が際立つ。(《不毛なほど、まぶしい緑》それは彼らにとって不毛だし救われない)

星野の行為は他虐に見えてその実リストカット。鬱屈して溜まるエネルギーを持て余して振り回されて苦しい。

「蓮見が守ってよ」「久野さんは大丈夫だよ」いちばん大丈夫じゃなかった津田が、痛々しい。

なぜ星野が蓮見のチケットを捨てたのか。小説版ではこう解釈されている

「青猫は、リンゴを持ってフィリアが来るのをしばらく待ってた。が、誰も会いに来ない。そのうちコンサートが始まってしまうので、リンゴを蓮見に預からせて外で番をさせることにした。そのため、チケットを捨てて蓮見を外に立たせっぱなしにした」

彼らは幼くて、他人が怖くて、叫ぶか泣くか死ぬか殴るか耐えるかしかできなくて。『14歳の、リアル』これほど秀逸なキャッチコピーはなかなかない。大人になるということは、その痛みを抱えたまま生き延びる術を身につけることだけど、生き延びることができなかった人もいる。大人になったからって、この痛みがなくなる訳じゃない。私が無事に通り過ぎた季節で行き倒れた彼らの絶望は、抱えて誤魔化して生きている私の中にも未だ在る。

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