エドワード・ゴーリーはなぜ不幸な子どもばかり描くのか?【展覧会】エドワード・ゴーリーを巡る旅
渋谷区立松濤美術館で「エドワード・ゴーリーを巡る旅」展が開催されている(2023年4月8日〜6月11日。2025年度まで巡回予定)。
エドワード・ゴーリーといえば絵本作家だが展覧会場で子どもの姿はほぼ見ない。
ゴーリーが描く子どものほとんどは、救いのない最期を迎える。
最初は大人でも快く思わず、おぞましくさえ感じ、関わりたくないと顔を背ける人もいるかもしれない。まして、子どもに積極的に見せたいと思う人はどれくらいいるだろうか?
2021年ゴーリーハウスの展示冊子の中で、グレゴリー・ヒスチャックは
[警告]本展示は悪しき最期を迎える子供たちに充ち満ちている。したがって、彼らと感情的な絆を築くことはお薦めできない。(略)
と言っている。
ではなぜ、ゴーリーは不幸な子どもたちを描き、世界中に熱狂的なファン(ほとんどは大人だが)がいるのだろうか?
ゴーリーの少年期は転居を繰り返し環境が目まぐるしく変わり続けた。
どんな子どもだったかと訊かれたゴーリーは、「小さかった」と答えた。
強烈な不幸があったわけではないが、人間のもろさ無防備さを思い知り、成長するにつれ、人間関係や決裂に対処する術を独自に作り上げていった。
ゴーリーが苦しんで乗り越えて抜け出した苦悶は、咀嚼され何千枚もの紙に描き込まれた。
そうやって描かれた作品の中で繰り返される苦難は、子どもから発せられ、子どものための本というより、野蛮な大人の世界を辛抱強く語っている子どもの声の本といえる。
モーリス・センダックは、
「テッド*・ゴーリーは子どもたちにとって完璧なのだ。なのに悲しいことに、彼の本は子ども向けに出版することを許されていない」
と言った。
モーリス・センダックもまた、子どもによる子どもの本を創る作者である。
ゴーリーも、自分の創るものの大半は「児童文学」の領域に属していると考えていた。
『うろんな客』も子ども向けの本だと言っだが児童書としては出版されなかった。
反面、ゴーリーは他の児童書作家から引っ張りだこのイラストレーターでもあった。
作者が生んだキャラクターに、素朴を装い、子どもっぽくないのに子どもの声を喚起するようなスタイルを与えることに長けていたことも魅力のひとつである。
ゴーリー作品の中には『薄紫色のレオタード』『金箔のコウモリ』などバレエを主題にした作品がある。
ゴーリーは、ニューヨーク・シティ・バレーを約30年間観つづけ、振付師ジョージ・バランシンを敬愛していた。
バランシンの振付けは、しっかりした土台がありその上に相対する力を使うことで、緊張感、躍動感を生み出した。
ゴーリー作品もまた、人に考えさせることと、考えさせないことを追求している。
作品に心底没頭することで、その作品の残像が心に留まり、各々が解釈する余地を与える。
平和な生活をしている子どもがどう感じるのか、あるいはどうやって伝えればいいか見せるのは勇気がいる。
地獄の絵本が話題になったことがあるが、ゴーリー作品はもっとリアリティがある。
紛争や貧困な地域に長くいる子どもたちは、私たちより幸せだと思うのかも知れない。
しばし立ち止まり、ゴーリーが描く独自のパターンを五感で読み解けば、深みにハマる魅力があるはずである。
*テッドは、エドワードの幼少期の呼び名
参考:「エドワード・ゴーリーを巡る旅」展図録
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