『U理論[第2版]』をレゴシリアスプレイメソッドの文脈で読む(9)第6章 哲学的見地
第6章は、第3章〜第5章の振り返りとしての役割をもち、より抽象度をあげて議論が進む。
第3章〜第5章のNoteは以下にある。
この中でわかってきたのは、私たちには「盲点」が存在していること、そして、その「盲点」を探し当てることこそ、問題を解決する糸口になるということである。
そしてその「盲点」を探すときに、自分自身が在るということに関わる存在論(オントロジー)という観点と、自分自身が知るということに関わる認識論(エスピテモロジー)の2つの観点があるとされる。
存在論的な観点からは、哲学的な思想の進展とともに、私の存在があり、私を作り出す私を取り巻く世界があり、私を取り巻く世界を作り出すプロセスがあり、プロセスを生み出す「源(ソース)」がある、、、というように視野を広げるような考察が重ねられてきた。
認識論的な観点からは、ある知識が存在すること、その知識はその状況についての知識の中に暗黙的に埋め込まれていること、その状況についての知識は、状況や自己を超えた「根源知」レベルから生まれてくること、、、というように意識のレベルを深めてきている。
シャーマーは、ニーチェの思想、フッサールの思想、ハイデガーの思想も、「何」のレベルから「プロセス」のレベルへと広げることの重要性を指摘しており、「プロセス」がどのような「源」から生まれていくかを解明しようとしたと位置付けている。
そして「源」についての解明まで、ニーチェやフッサールやハイデガーが至らなかったが、それをU理論は明らかにするものであるとする。さらに、この「源」を知ることは、人間の心のあり方を知ることに深く関わり、その解明のための重要な概念として、日本の哲学者の西田幾太郎や精神科医のデビッド・ホーキンズなどの言葉に出てくる「愛」というコンセプトを示しながらこの章を終えている。
レゴシリアスプレイメソッドとの関連性
レゴシリアスプレイメソッドおいて、まず、認識論の観点からみると、「知」は「コンストラクショニズム」という考え方で理解されている。つまり、実際にモノを作ったり操作したり言葉にすることを通じて「自分が何を知っているか」を初めて知ることができるという考え方である。それは頭に入っていることを取り出すというのではなく、手を使って作り、モデルを使って話すまさにそのときに出現してくるものとしてみている。
コンストラクショニズムでは、人間の活動そのものが「源」と接しているといってもいいかもしれない。
そうであるならば、モデルを作るときの「手の動かし方」や「観賞の仕方」や「ストーリーの語り方」や「質問の出し方」に目を向け、意識的になることで自分の「源」を知ることができるのかもしれない。
これを言い換えれば、まずHowのレベルでいうと
・ある問いに対して私はモデルをどこからどのように作るのか
・あるモデルに対して私はどのようにモデルを見ようとしているのか
・私はどのような順番ややり方でモデルのストーリーを語ろうとするのか
・私はどのようにしてある人のモデルやストーリーについて質問を考えているのか
を明らかにして、そうするのはなぜ?(Why)と迫り、そこにある答えが「源」とできるかもしれない。
存在論的な観点からいうと、まずは、自己のアイデンティティモデルを作り、自分を取り巻く周りの要素もモデル化して、動的な関係性を意識してコネクションの表現をしたシステムを組むということになるだろう。
その上で、なぜそのようなモデルが生まれてくるのか?と問いかけ、表現されていない「出現の源」を探すというやり方になるのだろう。
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