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小さなわたしを褒めてくれた大人たちへ 〜あなたのおかげで生き延びた〜

親から褒められた記憶がほとんどない。

小学校低学年からいわゆる優等生で、神童かと騒がれるくらいの子どもだった。私が私の親だったなら、どうすればこの子の可能性を最大限に伸ばせるだろう!?とワクワクしたに違いない。

でも、幼い私は両親の言動から「こういう自分は、この家ではあまり歓迎されないのだな」と感じていた。

父親は本当のところどうだったのか、正直わからない。そもそも会話が少なかった。私にとって父は長らく「謎の人」だった。父はとうに鬼籍に入ったので、今さら聞くこともできない。

母親は、勉強ができる私のことを「迷惑」とさえ思っていた気がする。それはたぶん、主に以下の3つの理由によって。

教育への無理解
父は難易度の低い高卒で、母は中卒だった。存命なら父は81歳、健在の母は77歳なので時代のせいもあるだろうが、両親ともに高等教育を受けていないため、「教育がいかに子どもの可能性を広げるものなのか」を彼らは知らなかった。

お金がなかった
私が高1のときに父は病気で無職になるのだが、それまでは零細企業(とっくに潰れて今はもう無い)のダラリーマンだった。現代なら真っ先にリストラ対象になるような人間だ。むろん給与は低い。
母は中卒の15歳で都会へ住み込みで働きに出て、以来62年間(今も現役)ずーーーっと内職でミシンを踏んでいる。むろん賃金は安い。
そして父は私が3歳のときに無理して家を建て、住宅ローンに追われた。まったく余裕のない経済状況の中、「学び」に対して子どもが欲を出すと困るのだった。

平凡を好む母親の価値観
母親はなぜか、目立つことをとても嫌う人だった。口ぐせは「ふつうがいちばん」(うっとりした目で)。
私が突出した成績で周囲から注目されると、「お母さんが教育ママみたいに思われてイヤやわ!」といつも言っていた。本人(私)の前で。
小学校低学年の授業参観で、自分で作ったお話を発表させられたときも、私が一度もつっかえずに感情を込めて読んだので、母は他のお母さんから「児童劇団に所属していらっしゃるんざますの?」と聞かれたらしい。「恥ずかしいわ!!そんなわけないやろ!!」と超不機嫌だった。

他には、私より2つ上の姉が勉強面では最下方だったので、私ばかり褒めるわけにもいかなかったのかな…などと考えられなくもないが、そもそも「勉強ができること」に価値を見出さない親だった。

また、両親は某宗教に傾倒していたため、明らかに褒められるべき場面でも「ご神仏のおかげ」にすり替えられてしまうのだった。

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小学校5年生の終わりごろ、私の心を決定的に折る出来事があった。

当時の私の担任は、20代後半のK先生(男性)。ハーレー・ダビッドソンに乗って家庭訪問に回るような、ちょっと変わった人だった。その先生がある日、家庭訪問の時期でもないのにドドドドドとハーレーで私の家に乗り付け、母親と話をした。

この子はとても優れている。中学受験をさせてやれませんか?というような内容だったと思う。私が終始、同席していたかどうかは覚えていない。母親がどのように答えたかも覚えていない。

が、K先生が帰ったあと、母親が鬼の形相で「いらんこと言わんでええねんっ!!余計なお世話やっ!!」と先生に対して怒り狂っていたことだけは、妙にはっきりと覚えている。

40年前の話で、そこそこ田舎の地域だったが、校区内には新興住宅地が多く、塾に通って中学受験を目指す子も増えていた。「自分の力を試したい」という気持ちを押し殺し、恵まれた家の子たちを眺めていた。

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その後、思春期になると、私は実家の居心地の悪さにますます苦しんだ。当時はわからなかったけど、要するに愛されたかったのだ。自分の能力を素直に褒めてほしかったのだ。

そんな「飢え」によって、私の心は栄養のバランスを崩していたのだろう、20代でとんでもないビッチになった。振り返れば、取っ替え引っ替えすることで本能的に、手っ取り早く自己肯定感を取り戻そうとしていたと思う。よく刺されなかったものだ。

ただ、そういった歪みは歪みとして抱えながらも、「コピーライターになる」「コピーライターで居続ける」ということだけは小学生のときからブレなかった。

幸い、私が好きな「書くこと」は、学校で取り組む機会が多いので能力が見えやすい。また私は「描くこと」も得意だった。親からはちっとも褒められなかったけれど、学校に行けば皆の前で作文が読まれたり、廊下に絵を貼られたりして、ちゃんと評価してもらえた。自分が好きなこと・得意なことに自信がもてた。

そして高校生以降、私の能力を評価してくれる人のエールは、より明確なものになった。

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忘れられない人がふたりいる。

ひとりめは、高校時代の現国のN先生。

1年生か2年生のとき、授業で短歌を作った。ちょうど『サラダ記念日』が出版されてから2、3年後のことだった。N先生は若い女性だったから共感したのだろう。そういった新しい短歌の潮流について紹介したあと、先生は「みんなも自由に作ってみて」と言った。

私は次のような短歌を詠んだ。

焼けたサンマ箸でくるりと返すように時にはすべてを裏返したい

おひさまをのせた布団にくるまって吾を愛おしむ今日は日曜

ほろほろと天から落つる春の陽を掴みて笑う君は菜の花


全部で何首を提出したか忘れてしまったが、覚えているのはこの3首。

先生は授業の中で私の短歌を取り上げ、激賞してくれた。授業後も、廊下での立ち話で「絶対にこっち(文学系)方面に進んでほしい」と言ってくださった。

(ちなみに『ほろほろと〜』の短歌は、先生が勝手に「全国高等学校家庭クラブ連盟(FHJ)」の会報誌に応募し、そのときの号で最優秀賞をもらった。「ご笑納ください」と、その後に送られてきたFHJのロゴ入り白Tシャツはパジャマになった)

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忘れられないふたりめは、朝日新聞社の編集部員の方(たぶん)。

大学3年生の終わりか4年生の初めに、「マスコミ就職セミナー」なるものに参加した。確か朝日放送や朝日新聞社の共催で、主に番組制作や記者、アナウンサー等を志す学生が対象だったけれど、広告・出版業界志望でも役立ちそうだったからだ。

セミナー最終日に作文を書いた。どんなテーマを課されたのかは忘れたが、私は尾道を旅したときのことを書いた。大学生の頃、尾道が好きで、よく一人でスケッチ旅行に出かけていたのだ。

『防波堤に座って海を眺め、脚をぶらぶらさせながらプリンを食べた。』

そんな書き出しだったと思う。

後日、郵送で返された作文には、赤ペンの手書きでこんな講評がついていた。

『とてもいい。生き生きとしている。ライター志望というのが頷ける。このまま行け!』

評価は『最上のAのさらに上』ということで、Aを丸で囲んであった。

作文は確か、朝日新聞社の編集部員が添削します、という触れ込みだったと思う。作文を提出する際のフォーマットで、マスコミの中でもどういった分野を志望するのかを記入していた。

プロがそこに太鼓判を押してくれたことで、私は迷いなく就職活動に臨み、広告制作会社に内定してコピーライターとしての第一歩を踏み出すことができた。

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むかしむかし、小さかった私の作文や絵を褒めてくれた大人のひとたちへ。

N先生や編集部員さんをはじめ、もう身体は小さくなかったけれどちっぽけな存在だった私に、エールを送ってくれた大人のひとたちへ。

あなたがたのおかげで、私はブレずに生きてこられました。
今も書いています。
これからも、頭が回るかぎり書いて生きます。



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