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ロドリゲス邸に住んでいるが、ロドリゲスさんはいないのでiPhone 4を置きました。

中山和也展 4週目レポート

中山和也展「写真を使った展覧会ってどう思う?~ギャラリストの新規採用~」の展覧会期間が終わった。終わった、と言っても2ヶ月以上前である。4週目のこのレポートが全く締め切りなんてなかったかのように先延ばしになっていたのには理由がある。中山のパリ滞在中、毎日のように会っていた友人の一人であるフランス文学の研究者で、小説家でもある渡辺いおさんにテキストを書いてもらいたかったからだ。いおさんに今回の中山の展覧会について話すと、どういうことだよと言いつつ、ずっと笑っていた。中山のこれまでの実践への歩み寄りと、今回の作品とを参照する機会になればと思う。(長嶺慶治郎)

ロドリゲス邸に住んでいるが、ロドリゲスさんはいないのでiPhone 4を置きました。

文:渡辺いお

 和也さんと初めて会ったのは、二〇一七年の春頃のパリで、日本人学生たちの飲み会でのことだった。「先生」でも「アーティスト」でもなく、友人「和也さん」として出会い、一緒に遊ぶようになった。だから、私が和也さんの作品について何か書くとしても、それは批評家としてではなく、パリで一緒の時間を過ごした友人として印象論を記すだけだ。
 和也さんはいつも誰かと一緒にいて、じっくり話をしている。私も彼とたくさん話した。カフェや誰かの家で、私たちは長い時間、いつも深夜まで話しこんだ。そのとき和也さんは、なにか自分の作品論を披露したり、最近の現代アートについて自説を展開する、ということは絶対にしなかった。私がそのとき取り組んでいることを話すと、笑顔でそれに耳を傾け、感想を率直に述べ、お返しに彼がそのとき真剣に考えていることについて語ってくれた。要するに、私たちは友人として話をしていた。
 和也さんと一緒の時間を過ごしているうちに、私はだんだん「作り手」としての和也さん(「アーティスト」と呼ぶのはしっくり来ないし、彼もそう呼ばれたいとは思っていないはずだ)にも興味を持ちはじめた。というのは、彼が人と一緒にいるとき、カフェでくつろいでいるとき、海岸線をあてもなく散歩しているとき、彼の中にはいつも独特の緊張感があるように感じたからだ。その緊張感は他人を気圧すようなものではまったくなくて、自分自身に向かっていくような内向きのものだった。旺盛な好奇心や柔軟な感受性の裏に、生真面目さのようなものが透けて見えた(私が和也さんの好きなところの一つだ)。それで、彼の過去の作品を見るうちに、また作品作りを横で見ているうちに、和也さんのこの生真面目さは、たぶん作品の作り方と無関係ではない、というぼんやりとした確信を得たのだった。

 和也さん自身がたまに口にしていたことだが、彼にとって、何かを作品として表現することとは、生活のなかの予測不可能なことや不可解なものに形を与えることを意味する。もちろん、予測不可能なことを日常の中から見つけだす、というのは、アーティストと呼ばれる人びとの多くが日々試みていることに違いない。和也さんもその一人なのだが、彼の場合、楽しいこと、未知のことを発見するためには〈認識の努力〉のようなものが必要だと考えている節がある。目に映る世界をどう見るか、あるいは世界から自分にもたらされる様々な刺激をどのように受けとるかについて日々考える。世界の認識の仕方を常に微調整しようとしている。そんな生真面目さがある。
 エッセイ「君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください」は、そのあたりの彼の心構えがよく表れている。高校時代に陸上部だった和也青年は、数々の練習メニューをこなしながら、「100分の1秒早い未知の世界」に飛び込むべく日々努力していた。あるとき、練習の指導者からこう言われる。「君たちより遅い選手がたくさんいますので、その選手たちがどのように練習しているか勉強していってください」。和也青年は、最初はその言葉の意味が飲み込めなかったが、ふと、タイムの遅い選手の練習する様子を見ているうちに、今まで存在することすら知らなかった「未知の世界」が開かれていく「衝撃」を受ける。その気付きを与えてくれるキーになったのは指導者の言葉であり、指導者が与えてくれた世界認識の作法だ。そこから、「隠れた次元に届くために、本当のメインストリートを走れるように、アクロバティックではなく、淡々と必要なことのために見たり、聞いたり、動いたりすることを最善とする意識が芽生えた」。
 身体の鍛錬か、認識の鍛錬かの違いがあるだけで、未知のものに向かう努力主義のようなものは本質的には変わっていない。それは和也さんにとって慣れ親しんだ鍛錬なのだろう。だから、和也さんが日々、他人と一緒に過ごしている時間、あるいは作品作りをしている時間は、彼にとっては新しい世界へと開かれるための糸口を注意深く待ち受けている努力の時間なのではないか。リラックスしながらも、何かの訪れを待って緊張を保っている時間。
 どうやら、自分自身が努力主義者である和也さんは、鑑賞者に向けてというより、自分にとっての「未知」を作品にしようとしているようだ。
 好対照の作品として、現代アーティストであるライアン・ガンダーのLocked Room Scenario(2011)と比較してみよう。ガンダーのこの展覧会では、鑑賞者が事前に入場チケットを購入するところからすでに作品が始まっている。会場を訪れた鑑賞者たちは、展示室だとされるスペースに何も展示されていないことに気づく。周辺をどれだけ見て回っても特に作品らしきものは見当たらない。そのため、チケットの返金を求める来場者が出た。この点についてガンダーは、鑑賞者側の能動的な読みとりの作業が必要なのだ、として次のように語っている。

「何も見当たらなかったという理由で大勢の人が返金を求めましたが、皮肉なことに、そこには鑑賞者に見てもらうために作られた150点ほどの物や状況がありました。架空の美術作品、何かを渡しに来る俳優、鳴る電話、トイレで話す人、夕食の約束、落とされた手紙、窓の中の新聞のクロスワードパズル。鑑賞者は会場に来る二日前に既に携帯のメールを受信して、バーのカウンターの中の人と話しに行かされました。それでもなお、何も見当たらなかったと言った人もいたわけです。」

 つまり、よく目をこらせば、展示会場には150点もの興味深い出来事があらかじめ配置されていたのに、大勢の鑑賞者がそれに気づかず、気づいても楽しむことができなかった、というわけである。
 ガンダーはこのインタビュー内で、自作のテーマを〈日常に潜む〉ものと表現している。私は初めてこれを読んだときどうも納得がいかなかった。日常に潜む未知との遭遇は不意に起きるものであるはずなのに、あらかじめそれを鑑賞者のために〈準備〉しておく、という態度にはどこか矛盾がないだろうか。もしガンダーの用意した未知の世界に気づいたとしても、それはあらかじめ用意されていたという意味で本質的には既知のものだし、少なくとも、想像の範囲内に収まる、こぢんまりとした世界なのではないだろうか。要するに、未知のものを作品化しようとする作り手が、その未知についてあまりに確信を抱いて語っていることが不思議だったのだ。
 ガンダーからすれば、ここには矛盾などないのだろう。インタビューを読むかぎり、ガンダーは自分にとっての未知と、鑑賞者にとっての未知をはっきり区別して作品を作っている。言い換えるなら、彼は自分にとっての既知を見せることに抵抗がない。だから、鑑賞者にとっての「未知」をコーディネートして、それに気づくための認識の努力を要求することは、彼にとって当然のアプローチなのだろう。ガンダー自身の言葉をさらに引けば、「ありふれた風景に潜む」もの、「鑑賞者がそれを見つけ出す気力があるかどうか」こそが「現代美術の意義」なのである。ここには、作り手にとっての未知とは何なのか、彼自身の認識の努力とはどのようなものかについての葛藤が見られない。ガンダーが知らない、知りえないことは、そもそも作品の内容に含まれていないようなのだ。
 これを踏まえて和也さんの作品を見てみよう。和也さんが鑑賞者に「未知」の経験を提供するとき、それは彼自身にとっても知らない出来事であることがほとんどだ。
 構想やアイデアだけが付箋に書かれて貼られた展示室を彼は用意する。まだ形になっていない(おそらく、完成像があらかじめイメージされていない)作品は、彼にとっても予測不可能な要素だらけなので、自作の説明にも曖昧さが残る。だから和也さんは、来場者とよく話し合い、意見交換をしている。来場者からすれば、何か魅力的な作品を観たいという期待は裏切られるので、人によっては不満を露わにすることもある。怒ったり困惑したりしている鑑賞者たちと和也さんは真剣に対話を重ねる。
 来場者が期待する「アート」らしさに応えず、むしろ鑑賞者の物の見方を問い直そうとしている、と考えるなら、和也さんもガンダーと同じことをしていると言えるかもしれない。だが、ガンダーが堂々と作品のコンセプトを説明できるのに対して、和也さんは自作についての説明責任のようなものを感じていない、あるいは、説明してしまうと消えてしまうものにこそ興味を抱いているように思える。おそらく、「現代アート」というフレームや、〈アーティスト対鑑賞者〉という固定した関係性抜きでおこなわれる他人とのコミュニケーションに興味があるのだ。
 そのためだろう、彼はいつも作品に他人を巻き込んでいる。他人と一緒にいる時間に作品を作る、あるいは他人と共有した時間そのものを作品にする。和也さんが、他人の生活にすこしだけ介入した時間が作品になる。
 彼の作品の多くが「日常」をテーマにしている。この日常とは、多くの場合、他人にとっての日常だ。人は、日々のルーティンのなかで作り上げたその人なりの生活習慣を持っていて、無意識に繰り返している様々な行動やしぐさがある。和也さんはそれらを観察し、そこにほんのすこしのスパイスを加える。それによって、生活には何の支障も来さない程度の、しかし日常の中では決して起きない異変が生じる。
 ここで重要なのは、作品で観察されている日常は、和也さん自身の日常ではない、ということだ。誰かの日常に介入する彼自身の姿は周到に隠されている。ただし、ほとんどいつでも、彼が介入した痕跡は残されている。意図的に残している、と言っていいだろう。作品紹介の写真に、いつも自分の存在を――画面の端に写り込む彼のiPhone 4のように――不在というかたちで紛れ込ませる。まるで、作る意志、介入する意図、表現者としての作為そのものを表現したいかのようだ。
 作品に作り手が現れないように工夫するほど、かえって作り手の存在を強く感じさせる。この効果を和也さんは意識的に利用している。和也さんにはアートらしさやアーティストらしい身ぶりがない、と先ほど書いたが、その一方で、和也さんは「アート作品」としての形式を几帳面に守ろうとするところがある。どの作品にも、写真、題名、キャプション(英訳もついている)が添えられている。誰が見ても、それが「作品」として提示されていると分かるように設置し、記録している。
 作品らしきものと、そこに残された痕跡が目に入ると、鑑賞者はそれに惹かれて、彼の意図を読み取ろうとし、解釈を始める。どうやら、和也さんが、展覧会らしさや作品らしさを装ったインスタレーションをするのは、作品を制作するためというより、それで他人の興味や思考を誘導するためだという気がしてくる。そうして他人とコミュニケーションを始めるのだ。作品作りを通じて、他人の日常に入り込み、あるいは他人の意識を作品の中に招き入れて、未知のものを呼び込もうとしているようだ。
 私が和也さんに感じた独特の緊張感は、たぶんこの点に関係がある。彼にとって、他人とのコミュニケーションに向かう外向きの動きと、自分の意識を未知に開くためのごく私的な努力はセットだ。そのような作風は、たとえ他人を題材にしていても、独りよがりな内省におさまるリスクを孕んでいる。それは、未知のものと思っていたものが実は既知によく似たものでしかない、という失望に終わるリスクのことだ。和也さんは、いつも、この危険をぎりぎりで回避しようとしているように見える。彼の二十年間の制作は(いま私は、彼の個人HPにあるWorksを一つ一つ眺めている)、認識の努力と、その努力を適度に外界へと開いておくためのバランスを調整し、自意識と世界のあいだの均衡を探る長いプロセスなのだろう。
 さらに付け加えると、和也さんは、この際限のない微調整の努力にこそ親しみと喜びを覚えているようだ。未知が既知に変わってしまう前の、目標に達するまで意識を宙づりにしている時間は、希望が失望に変わる手前の楽しい時間だ。世界や他人の日常にお邪魔して、新しい世界の訪れを待ち受けている時間。つねに新しい刺激の中に身を置いて、意識を安定させないようにする時間。これは本来とても疲れる状態なのだが、しかし努力型の人間にはけっこう心地良い状態だ。我慢するのは苦ではないし、何よりその緊張状態は新しい認識――隠れた次元――への糸口をつかむチャンスに満ちている。リラックスと緊張を行き来する時間は、和也さんにとってたぶん好ましい時間なのだろう。
 京都市の裏山の坂道、歩道のアスファルトに、言われなければ誰も気づかない程度のわずかなくぼみがある。その100メートルほど上流から、和也さんはオレンジをそっと転がす(*)。オレンジはころころと、くぼみに落ちることなく坂の下まで転がっていく。和也さんはもう一度上流からオレンジを転がしてみる。くぼみに落ちるかどうかを見届ける。これを何回も、何回も、オレンジがくぼみに落ちるまで繰り返す。その繰り返しのあいだ、和也さんは、自分と世界とを隔てる距離について、そして世界のことを考えている当の自分の意識について、ずっと考えを巡らせているのだと思う。それはまた、アーティストとしての作為の息苦しさから、一時的に解放される時間でもあるだろう。
 誕生日プレゼントや手紙を、遠くに住む誰かに届ける。アポなしで、時には海外まで知人に会いに行き、しかも来たことを告げずに帰る。直接は自分と何のつながりもなく、言葉も通じない見知らぬ土地を訪れる。和也さんは作品に他人を巻き込むために、自分の時間をたっぷり使って、他人の日常から別の日常へと常に移動している。移動している時間は、オレンジがくぼみに落ちるのを待つ時間と似ている。これは勝手な想像なのだが、列車や飛行機に乗って移動しているときの和也さんは、すこしほっとしているのではないだろうか。

*参照した作品
・「夏みかんの終わり」(2000)
・「フレッシュオレンジ」(2002)
・「君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください」(2009)
・「言わずに居たわ」(2009)
・「李先生がいない」(2010)
・「代わりに誕生日プレゼントを渡しに」(2010)
・「マダムロドリゲスのランプシェード」(2016)
・「セザンヌはどこだっけ?」(2016)
・「入れ替わり/さっきまでいたパリを離れ、あなたの場所に来ています。」(2019)


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