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掌編:昨日の海辺


⚠︎少しですが、自傷行為や性的な事柄に触れる表現があります。



浜辺に立って、遠くを眺めていた。
潮の引いた干潟には、灰色の雲間から差す光があたり、砂浜に残る水溜りが美しく光っていた。


千夜は自分の手首の古い傷を見つめ“気になる”と思った。
この傷をつけた頃はその傷が、辛かった時の自分を残しておくための大切な宝物の様に感じていたのに、最近は何だか隠したいと思いはじめるようになっていた。
美しい刺青で覆うのはどうだろう、と何度も考えるが美しく且つ飽きない図案を見出せず、思うだけに留まっている。自分の好きな、フランスの布模様のような枝や花や鳥が良い。

千夜は砂浜にしゃがみ込み、貝殻を探した。
巻貝はなかなか見つからない。
硬く白い骨のような貝殻の、つるつるした表面の滑らかさ、指に伝わるひんやりとした温度、主のいなくなった貝殻の生まれて来た記憶だけが残っている。

夏の砂浜の、歩くたび足裏を焦がすような暑さや、涼しい日の指の隙間を埋めるサラサラした感覚、濡れた砂の硬さなどを思い出して目を閉じる。
いま、どの季節を過ごしているのか忘れるほどに様々な日々をゆっくりと鮮明に思い出してみる。
遠くの空に点々と鳥が飛んでいる、形はよく見えずまばらに飛んでいくのが見えた。


千夜は小さい頃、駅前開発で街が変わる様子が耐えられなかった。
知っている店や人が少しずつ全く知らないものと入れ替わっていく。千夜の世界が侵略され壊されていき、思い出すための手がかりさえも失ってしまう事が恐怖だった。

干潟の、点々と地平線まで続く水溜りに空がそのまま映り込み、まるで地面の穴から空がのぞいているかのようだ。覗き込む空は海そのものなのに。

千夜が小学生の頃、住んでいるアパートに帰宅したとき、見知らぬ男の人に声をかけられ顔に口をつけられた事がある。その時初めて自分が捕食の対象である事を認識してしまった。自我を奪われても営めば育まれる生命の恐ろしさに気付いてしまった。

性的なものに対して嫌悪感を強く感じると同時に自分にすら嫌悪して、他人から触れられることも直接自らを触れることも出来なくなった。

それでも中学生の時、勉強を教えてくれる少し年の離れた異性を好きになった。彼は、千夜の好意を受け入れて要求を叶えてくれたのだが、手を繋ぐことや抱擁することがあっても、一線を越えることは無かった。性的な対象として見ないでいてくれる事が、千夜にとって重要だった。

夜中に近所をドライブしたり、少し遠出をしてデートをしたりした。何度か冬の夜に、彼の住むマンションの外階段の踊り場で、後ろから抱きしめてくれる事があった。外に広がる夜景や、線路を走る電車を眺め、冬の空気を感じていた。

ひとりっ子だった彼は、守るべき妹が出来た様に感じていたのかも知れない、そこにあるのは、ただ平熱の体温と安心感だけだった。

空はどこまでも静寂につづいてゆき、砂浜は水をたたえ静かに生命を抱きしめていた。


誰もいない干潟の、静かに広がる世界がいつまでも続くと良いのにと思う。
馴染めない世界に帰りたくない、と願う。
ただの感情のない粒子になって漂うだけで良い。

千夜は、海辺の砂混じりの風を懐かしく思う。
どこからも離れた柔らかな色をした雲が広がる空の下で、だんだんと何者でも無くなって景色と一体となっていく感覚がとても嬉しかった。


fin

ずうっと行ってない大好きな干潟の“三番瀬”と、森を散歩した時に初めて感じた自分だけになる感覚をお話にしたくて書いてみました。そして共感がうまれにくい少女の部分など…。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!とっても嬉しいです。


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