走って、書いて、生きていく
走ることと書くことは似ている。走ることと生きることは似ている。
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冷たい空気を勢いよく切りさくように、自転車で公園に向かった。いつもの広場に自転車を置き、2020年初のランニングをはじめる。ぴゅーっと吹きぬけるからっ風に凍えそうな日すら、走り出せば、あっというまにあったかくなる。
長距離走がきらいだった。子どもの頃からずっと。
それはなにも、スポーツに限ったことではない。
どうもわたしは、人生全般において長距離走に苦手意識がある。計画を立てて行動をコツコツと積み上げたり、ペース配分を守って地道に物事を進めたりできた経験が少ないのだ。
じりじりと負荷がかかるものを避ける傾向がある。足に疲れが溜まり、呼吸がくるしくなってくると、すぐにやめたくなってしまう。
なにごとも一気集中型。猪突猛進型。うらがえしの飽きっぽさと、目的以外への興味のなさ。くるしさなど感じる余裕もないくらいに一点だけを見すえ、いつも最短距離で、高速で進みたがった。
さいわい、学校に通えば定期的にテストがあり、陸上部に入れば記録会や競技会があった。
短距離を途ぎれ途ぎれにつなぎながら、どうにか長い距離を走り、あるいは走ったかのようにみせることができた。周囲にはペースメーカーや競争相手、記録係がいた。生活を支えてくれる人たちもいた。
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しかしおとなになると、短距離を連続させるわけにもいかなくなる。
全力疾走ばかりだと、周りがみえない。道端に咲くちいさな花も、地面を彩る銀杏の葉も、だれかの落し物も、かけてもらった言葉も、一瞬のうちに視界から消え去ってしまう。
全力疾走ばかりだと、すぐにエネルギーを使い果たしてしまう。すぐに靴がすり減ってしまう。ほんの十数秒走っただけで足がもつれ、息が切れる。走るたびに長い長い休みが必要になる。身も心も、日々の生活も、短距離走の連続ではもたない。
そしておとなになると、ペースメーカーも競争相手も記録係も、生活面も、まずは自分で担うものなのだと気づかされる。自分でからだのケアをし、道具をそろえ、走る準備をし、ペースを刻み、記録し、きのうの自分と比べる。客観的な数値や他者の尺度を考慮しつつも、自分の測りも用意してちゃんとたしかめなければ、しあわせになれそうにない。
全力疾走を続ける困難さも、自分のペースは自分で築いていくしかないという事実も。わかってきたのは、つい最近だ。
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数年前、社会人になったばかりの頃。多数のランナーが集うコースでランニングをした。見つけたのは、いまだ心のなかに跋扈する強固なプライドだった。
走っている横を追い抜かれるたびに、胸がきゅうっとくるしくなるのだ。長距離が得意でないとわかっているのに。体力がおとろえているとわかっているのに。走っている人たちの多くはわたしよりもランニング経験があり、比較する対象ですらないとわかっているのに。
抜かされると焦った。
自意識過剰でばかみたい。そう思ったけれど、どうしようもなかった。
気分転換。体力づくり。健康なからだづくり。ランニングそのものの爽快感や走り切ったことによる達成感。自己ベストの更新。
他人がまわりにいるだけで、「他人と比べた速さ」以外の指標をことごとく見失ってしまう。根拠のないプライドの塊、脆弱な自分がそこにいた。
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あれから3年以上の月日が流れ、変わってきたことがある。
余計な力を抜いて自分のペースで走れば、長く走れると知った。距離を積み上げると自信になると知った。他人のペースや足音に過度に気を取られなくなった。
ゆっくり走れば長く走れる。あたりまえなのに挑戦したことがなかった。実際に試してみたらおどろいた。走れる距離が、すこしずつ伸びてきたのだ。
1周から2周になり、2周から2周半になり、2周半から3周になった。力みを減らし自分にとって心地よいスピードで走れば、いつもより長く走れた。目標地点まであきらめずに走れた。
次は同じペースで半周分長く走ろう。次はすこしペースを上げて同じ距離を走ろう。こうしてわたしだけの尺度ができあがっていく。
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ランニングの練習法に、LSD=Long Slow Distance というものがある。ゆっくりと長い距離を走ることで、走れる体質やフォームを徐々につくっていく方法だ。
正直なところ、LSDに興味がわいたことはなかった。興味がわいたところで自分にはできないと思っていた。退屈でつらそうだからだ。
でもいまは、すこしだけ面白いと思える。
自己ベストは、速さだけにあてはまるものではなかった。距離、気持ち、だれかと一緒にたのしめたか、自分自身と向き合えたか。ランニングは、いくつもの側面から評価でき、それぞれがちゃんと達成感やよろこびにつながるのだ。
評価すら必要ないときだってある。無心で一瞬を走る。風を感じる。それだけで十分で、それこそが至高なときもある。
昔は、きのうの自分と勝負する、だなんて、ちょっとダサいと思っていた。人と競う土俵に立てないときの言い訳だと思っていた。
けれど。
きのうの自分をちゃんと振り返ることも、いまの自分と向き合うことも、走り出すことも、走り続けることも、そう簡単じゃない。自分のやり方やペースをかたちづくるのは簡単じゃない。
わたしは淡々と長距離を走れる人に憧れる。
足踏みしても、立ち止まっても、後退しても、だれが近くを走っていようと、人に追い抜かれようと、離されようと、きのうの自分をちょこっとずつ乗り越えていくことでしか前には進まないのだと、ランニングの神様は教えてくれる。
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noteを更新するようになってから半年ほど経った。この十年で、自分の意思で半年間も続けられたものはnoteだけだ。
同じように文章を書いている人たちは、陸上部の仲間とすこし似ている。基本は個人競技で種目もそれぞれ異なるけれど、刺激し合い、応援し合い、ときに嫉妬し合い、ときに襷やバトンをつなぐ。
走ることと書くことは似ている。
自分や世界と向き合って、とことん孤独な作業を続ける。とことん孤独な作業で世界とつながろうとする。人とつながろうとする。自分という人間とつながろうとする。
今年も基本はLong Slow Distanceで、ときどき豪快に全力ダッシュをしたい。
そんな生き方も、ありかなあ?
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