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「ふつう」の呪い

「ふつう」って何でしょう。

次に取り上げるものは、人権啓発作品として私が作成した4コママンガです。

▲ 作品タイトルは「へんだね!?」


大海にある多様性。それを見ない2匹の姿。2匹の「ふつう」は、ビンの中の認識に過ぎないのだということを、「へんだね!?」と題してどっちがへん!?と表現してみたのです。

私たちの日常生活の中にも、
次のような「ふつう」が、様々なシーンでたびたび表出されますね。

えっ、そんなん持ってないの? ふつう持ってるやろ。

ウチは、ふつうに高校行って、ふつうに働くねん。

あの人、見た目ふつうやし全然気づかなかったわ。

「えっ、おまえもそうなん?」「ちがうよ、ぼくはふつうやけど。」

あやういものが臭ってきます‥。同調圧力への過反応と言えるものでしょうか‥。

先日終了した朝ドラ『虎に翼』の脚本家である吉田恵里香さんは、NHK「クローズアップ現代」という番組の中で、次のように述べています。

良くも悪くも、人の言葉って誰かを縛っちゃうというか。「いい子でいてね」もそうだし、「女の子らしく」「男の子らしく」とか。「結婚」とか「いいお嫁さん」とか。人が思っているより強い縛りになるなと思っていて、それを私は呪(のろ)いって言っちゃうんですけど。
無意識に発せられる呪いを浴びまくって、がんじがらめになっちゃうみたいなことが多い気がしています。

▲インタビュー中の吉田恵里香さん

「ふつう」の子。
「ふつう」の女の子。
「ふつう」の男の子。
「ふつう」のお嫁さん。
「ふつう」の中学生。
「ふつう」の先生。
 ‥‥
無意識に発せられる「ふつう」という言葉の呪い。
この「呪い」は、それに該当しない人を排除し、差別の構造を強化していくことになるのだということをわきまえなければなりません。悪気をともなわない分、タチが悪いです。
「ふつう」という言葉を疑う。
「ふつうであろう」とする思考を疑う。
このことがとても大切です。

2学期の学校では、人権に関する学習が各学年ごとに展開されます。その計画や事前の研修が校内でも進んでいることでしょう。
その学習においては、「差別は、ダメですよ」と指導者から言われ、「私は、差別していません」「差別しません」というおりこうさんの言葉でその学習をまとめるような子らを育てようとするのではなく、「私は、差別する(かもしれない)人だ。だからこそ差別をなくす生き方をしたい。」と自分事にしていく子らを育てたいものです。

確かな人権感覚を磨かねばなりませんね。


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