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ただただ坐(ざ)す
坐禅(ざぜん)。
いつだってできそうで、どんな場だってできそうで。でも、やってこれたかというと、できずじまいで…。学校の現場を退いたからこそうまれた「時間」。それが目の前にあるのであれば、尻込みしない。
と、言うわけで、臨済宗の「とある禅寺」にて、禅修行(坐禅や作務などによる修行)に臨みました。2024年の暮れ、3泊4日の修行です。
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学校でいうところの「予習」として、次のことを知りました。
個々にそなわっているとされる仏性(ぶっしょう)。仏性とは、尊厳で純粋な人間性のことを言うそうです。身にある雑念や欲などを捨て去り、これに気づくことを見性(けんしょう)と言い、修行では、この見性をめざします。修行の中には、読経や作務などもありますが、その中心は、なんといっても坐禅。
臨済宗の坐禅は、看話禅(かんなぜん)と言い、壁を背にして坐り、老師より示される公案(こうあん)に対して答えを求めて思索する修行です。公案とは、禅に関する「問い」のことです。
一方、同じ禅宗のひとつである曹洞宗の坐禅は、黙照禅(もくしょうぜん)と言い、公案を用いず、目的も意味も求めません。ただひたすら黙々と壁に向かって坐るのだそうです。
(私の記事『「放つ!」の会得』で取り上げたのは、この曹洞宗の方でしたね。)
坐禅は、その身を調え(調身)、その呼吸を調え(調足)、その心を調える(調心)ことを基本とします。
さて、実際の坐禅。
この基本ですら、まずもって難しい。まず、胡座(あぐら)を組むことが、難しいし、痛いし、つらいし、つらい。そしてなにより難しいのは、なかなか雑念を取り去って坐れないこと。脳のアイドリング状態をおさえられない。「しっかりしろよ、何も考えるな…」、こんなふうに困惑する自身の思考自体が、まず邪魔になって…。早々にくじけそうになります。
だからこその修行。
縁あって出会った10名(北海道・東京・大阪・三重などからの方々)と常住(じょうじゅう:長期にわたって修行され、私たちをサポート・指導してくださる)の方々とともにこれに挑みます。
凍える夜の禅堂では、鼻から静かに吐かれていく息が白くなって目の前を漂うのを、半眼する私の目がとらえます。
まだ真っ暗な朝の禅堂では、だんだんと外が明るくなっていくのを感じます。鳥たちが起き出したのがわかります。
和尚様は、次のように教えてくださいました。
坐禅によって、「今、ここにある」、このことだけを保つこと。吸って、吐いて、の呼吸。人は、これによって生きている。そのひと呼吸を、「命懸けのひと呼吸」とする。その繰り返し。
「今、ここにある」、それは、私のこの「命」。ただただ生きようとする「命」。それだけを懸命に保って坐す。
静かにゆっくりと鼻から空気を体に取り込む。腹式呼吸。お腹を膨らませていきます。一度とめて、そこから、「気」は、ヘソの下にある「丹田(たんでん)」に向けて落とし込むイメージ。一方、息は、ゆっくりとゆっくりと吐いていく。このひと呼吸。命懸けのひと呼吸。
和尚様は、現代社会に生きる私たちの中に「脆弱(ぜいじゃく)な自己」を見ておられます。やさしくしてもらうの大好き。弱い者勝ち。他責・他斥。塩水を飲んでいるような人生。「オレってすごい」の中にある「ひ弱さ」。…和尚様のお話に出てきたこれらのワードが、私の心をとらえます。学校の子ら、先生たち、そして自分…。思いあたることだらけです。
そして、次のようにおっしゃいます。
人から「評価」される社会。
できるか、できないか。それですべてはかられてしまう。では、できないからダメな人間か。できる人間はエラいのか。……。
それができようができまいが、目の前にある難題・逆境にたえながら逃げ出さなかったというその在り方は、人の「評価」に関係なくその人の中に残り、「太い自我」をつくってゆく。
さらに、次の詩も紹介されました。
つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました
あやまちや失敗をくり返したおかげで
すこしずつだが
人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました
何回も追いつめられたおかげで
人間としての自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました
詩「つまづいたおかげで」の一部による
人は、困難・逆境と向き合う中で、たとえ自分の思うような結果や成果にならなくとも、自分でも気づかないうちに自我を太くしていっているというのでしょう。「負け」にたえる心。「恥」をかく訓練。「人薬(ひとぐすり)」。こんな言葉も、和尚様は使われました。
坐禅による禅修行。
ただただ坐すことが、どれだけ難しく、どれだけ貴いか。自分自身と静かに向き合う時間が、どれだけ貴いか。そして、同じ修行に臨む仲間がいることも、どれだけ貴いか。
たいへん短い期間の修行でしたが、この経験は、かけがえのないもの。この修行でお出会いした全ての方々、そして、この「機会」に厚く感謝します。
…合掌低頭。
なお、禅修行では、坐禅だけでなく、和尚様からの法話、「動く坐禅」と言われる作務(さむ:落葉そうじや床拭きなどの日常作業)、作法にのっとって感謝していただく粥座(しゅくざ:朝食のこと)・薬石(やくせき:夕食のこと)、一心不乱の読経(間違ってもいいので大きな声でお経を読みます)、立ち居振る舞いの作法の実践などにも取り組みます。
P.S.
以下のものも、ご参考に。