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ゆらめく曲線。
ものごとには「合う・合わない」がある。
ある人に合う靴も、別の人には窮屈で。ある人には似合う髪型も、別の人には似合わない。ある起業家が「人生はチャレンジだ」と言っても、窓際の会社員には響かない。「酸素が大事」と地球人がいくら言っても、二酸化炭素で暮らす火星人には聞こえもしない。
視力の悪い人にとってのキツイ度数のメガネは、裸眼で暮らせる人がそれをかけると日常生活を妨げるただのガラクタ。
高校大学で仲の良かったはずの友人とはやがて会話が噛み合わなくなり、疎遠になっていく。
あんなに楽しく語り合っていた20代前半の愉快な時間も、30歳を超えてみると「どうしてあんなことで笑っていたのだろう」と思ったり。
人生が仮に、波線のようにゆらゆらしながらどこかへ進んでいく曲線だとして。空間上では他の人も同じように、それぞれの波線を描くわけだから、どこかで混じり並走し、かと思えばどこかで離れ、また混じる。
3年前に知り合った49歳の男性が、
「イトーさん、私はね、この年齢になって"ご縁"という言葉の意味がなんとなくわかった気がしましてね」
と言っていて「そうですか、そうですか」と反応していたものだが、30歳を超えてなお、この"ご縁"という言葉を軽々しく使えない自分がいる。
ものごとには「合う・合わない」があると書いた。がん患者にならなければ、がんの怖さはわからない。がん患者にならなければ、がん闘病記を調べもしない。
自分の卒業した大学へのコンプレックスがなければ、東大やハーバードに憧れる気持ちも理解できない。
正しい結婚相手を選べたという自負心があるから、幸せな結婚生活を語れるわけで、そうじゃない場合は他人の幸せな話を聞きたくもならないかもしれない。
他人様の子育てが順風満帆に見えて、自分の家庭の状況を見ては少し落ち込んで、また元気を出したり。
文章を「書いている」だとか「書きたい」だとか「何かを書き残したい」みたいな欲求が、ゆらゆら波線を描いてコップいっぱいに満ちるからnoteで文章を書くわけで、それを必要としない人とは波線が混じり合うこともない。
ものごとには「合う・合わない」がある。
そう考えてみると、この空間で私を知ってくれた方々というのは、たまたま私の波線と混ざってくださったのであって、
ある人はしばらく私と並走し、
ある人は離れ、
またある人はいつか戻ってくる。
これらはすべてゆらめく波線だ。
この波線が混じり合う瞬間を「ご縁」と言うのかもしれないが、やっぱりこの言葉を軽々しく使えない自分がいる。
だからそんなことは考えず、口にも出さず、今日も明日も、私は私の波線を、私だけの動かし方でゆらめかせるしかないのだ。
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<あとがき>
「ご縁」という言葉がうわすべりしながら口から出ている方をたまに見ます。20代、30代に多いかもしれません。そういう言葉を使っている方を見るたびに「この人はゴエニストかぁ」と思ったりするわけですが、でもそれは冷めているだけで、素敵な意識だな、とも思ったりもするわけです。今日も最後までありがとうございました。
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