自分の愛するものを愛してくれる人を愛したい。
創作大賞の募集期間が終了し、はや数日。みーんなすっごい作品をnoteに投稿している。総数は11万件あるらしい。芥川賞の応募総数が2000ちょっとだから55倍。ハードなゲームだ。
はてこれ、運営側は全てに目を通せるのか? と思ったりもするんだけど、noteには深津さんがいるからきっとAIテクノロジーを駆使して作品を品評しそうな気がする。いや、さすがにそれはないのかな。わからない。
私も何作か書いて応募した。恥策だが過去のエッセイにタグをつけて応募してみたりもした。果たしてどうなるかわからない。引っかかるかもしれないし、箸にも棒にもかからないかもしれない。
結果がどうであれ、楽しみが増えるのはいいことだ。ほぼ宝くじみたいなもんだと思うが、運を天とnoteに任せようね。
書いたものは読んでくれる人だけに届けばいいというのは私にとっては素晴らしい綺麗事で、私は評価されたい側の人間だし、どこまで通用するのかを試したい側の人間だから、できれば何かに引っ掛かってほしいな〜と思ったりもする。
おそらく創作大賞に応募したすべての人がそう思っているわけだから、その中から選ばれるのは至難の業で、運と実力の両方を兼ね備えていないとダメだろうなと考える。
とはいえこの空間にいるどなたかに創作大賞各部門の栄冠が授けられるわけだから、なんだか不思議だ。
中国の故事では諸葛亮を評して「臥竜」と呼んだ。意味は「世間にまだ知られていない眠れる竜」だ。
おそらくほとんどの人が「我こそ臥竜」と信じて疑わないわけで、私もその中の1人。みーんな臥竜ということにしておこう。臥竜と大器晩成は便利な言葉だよ。
創作大賞においてはいつもの文章が「作品」として評価される。
私たちが書いた文章は、濃淡のちがいこそあれひとつひとつが大事な作品であるわけで、誰かにみてほしいと願って書いた作品。それがどこかの誰かに届き、それを愛してくれたなら、つまり反応してくれたり褒めてくれたりしたならば、こりゃそれほど嬉しいことはない。
作品を愛してくれる人の存在は、我が子の親友に似ていそうな気がする。
子どもは親にとって玉のような宝物であると断定して話をすすめるけれど、赤子として宇宙に生まれ、親は眠れぬ夜を過ごし、目は見えるか、耳は聴こえるか、学校に行けば友だちはできるかと気苦労は絶えない。
学校から帰ってきた子どもが今日の出来事を話すとき。友だちができた、親友ができたという話を聞くのは、親にとってはおそらく至上の喜びであろうと思われる。
なぜなら自分が愛している存在を同じように愛してくれる別の存在が、親である自分たち以外にいるのだという確信と安心を持てるから。きっと古代の人も同じ気持ちだったろうな。
ベタな言い方だが作品は子どもと同義である。苦しんで産み、育つ行く末を心配しながら見守る存在が作品であろう。
創作大賞に対してベストを尽くせた人も、そうでない人もいると思う。
作った作品がどうなるか、どう評価されるかを心配するのもいいが、個人的には胸を張り「私の作品はこれで、私はこれをとても愛しているんですよ」と、作品を我が子のような愛情で包み、世界に喧伝できる人間でありたい。
というわけでnoteさん、審査マジでがんばってください!
【愛情】私の創作大賞用のエッセイはこちら
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