好きだと言いたいけど言いづらい映画。
好きな映画を語るのは難しい。
なぜなら「好きな映画」にはその人の個性が出るからだ。どんなものを良いと思うのか、どんなものに感動するのかが如実に出る。それが、映画。
20代前半のときの「好きな映画はなんですか?」という質問。だれかからこの質問をされたとき、心の中には警報音が鳴ったもので。Jアラートだ。警報級の質問。あれ? Jアラートの「J」って"J"apanの「J」ですか?
これを書いていて思ったが、この「好きな映画はなんですか?」という質問を「する側」に立ったときの私の質問意図もちょっとひねくれていたなぁ。
「どれどれ、きみはどのレベルなんだい?」みたいな、ある意味での値踏み感が多分にあったと思う。
たとえばこの質問をしたときに「バグダッド・カフェが好きなんです」と言ってくる人はいなかったけれど、もしも好きな映画に「バグダッド・カフェ」を選んで答えてくるような人がいたとしたら、まさしくJアラートがビコビコ鳴っていたと思う。
「バ、バグダッド・カフェだって!? こ、こいつは通なヤツか? もしくは通だと思われたいヤツか? う〜ん、後者だ! そうに決まってる! え、でも? もしも前者なら!? あ〜もうわかんないよ! ドラえも〜ん!」と考えながら会話を進めていたと思う。
通といえば通だし、通じゃないといえば通じゃない、ちょうどいいラインの映画ってのもある気がしていて、それはたとえばこのあたり。
これらの映画は、個人的には絶妙なラインをついている気がする。通といえば通だし、通じゃないといえば通じゃないライン。映画が好きなんですね(ちょうどよく)、みたいなラインである気がする。
ここで「え? ジブリは? 紅の豚は?」と言ってくる方とは話が合わなさそうだ。なんかわかんないけど合わなさそうだ。でも、ジブリは大好きだ。
…
では、通といえば通だけど「それは狙いすぎじゃない? それ、本当?」と思われてしまう「やりすぎ」ラインの映画は何か。
有名っちゃ有名なんだけど「それ、他人からの評価を気にして好きだと言ってない?」な映画をちょっと羅列してみよう。
これらの映画を「好きなんだよね」と語られたら、心の中にJアラートが鳴る。そういう「やりすぎ映画」である。
個人的やりすぎ映画
[1]市民ケーン
[2]バッファロー66
[3]パルプ・フィクション
[4]シンドラーのリスト
[5]ヒッチコック作品
[6]小津安二郎作品
[7]初代ゴジラ
これらを「好きだ」と言ってくる方がいたことはないが、なんだか、なんだか、本当になんだか「それ、本当?」と言いたくなってしまう。
いや、もちろん、どれも素晴らしい映画だとは思うんだけど、たとえば「初代ゴジラが好きなんです。水爆実験の時代の〜」と語ってくる人が出てきたとしたら「え? 本気? それは心から言ってるの?」と思ってしまう。会ったことないけど。
あるいは「私はパルプ・フィクションが好きで〜」と言ってくる方。これは完全に偏見だけど、こういう方は間違いなくパルプ・フィクションを1回しかみていない。
こうやって書いたときにムキになって「いやいや」と反論してくるパルプな方がいるかもしれないが、そう反論してくる方でさえ、どうせパルプ・フィクションを3回も見ていない。第一、パルプ・フィクションは3回も見る映画ではない。あれは2回までだ。
仮にパルプ・フィクションを3回見ていて「ほら、だから私はパルプ・フィクションが好きなんですよ」と得意げになる方がいたとして、そうやって勝ち気に言ってくる方ほど、パルプ・フィクションがなぜパルプ・フィクションというタイトルなのかまで理解していない。
なんなら「いや、本当なんです、イトーさん! 私はパルプ・フィクションをみて人生が変わったんです!」と言ってくる方がいようものなら、大声で「ウソをつくな!」と言ってみたい。もちろん2人でニヤけながら。
なんか、すべてにごめんなさいだ。
…
そういや昔、仲のいい男女が集まった食事会に、ある女性がいて、誰かが「好きな映画は?」という魔の質問をした。
彼女は少し悩んで「う〜ん、バ、バック・トゥ・ザ・フューチャーです」と言っていた。なんだか濁りのある回答だったな、と思ったので、あとで聞いてみると、
と言っていた。
こいつは絶対いいヤツだ、と確信したものである。
つまり、好きなものに貴賎はない。そこに上下はない。好きなものを心から好きと言えるのって、それは素晴らしいし、周りのことを考えて遠慮するのも、それはそれでいい。
この記事で挙げた、個人的「やりすぎ映画」は、実は私も「好きだ」と言いたいけれど、ちょっと遠慮している映画たちなのである。
ちょうどいいは、難しい。
と、いうか性格が悪い。
【今夜9時】森井さんと創作について話すスタエフ