孫について考える
こんにちは、ぱんだごろごろです。
今日は、タイトル通り、孫という存在について考察してみようと思います。
「妊活」とは
なぜ「孫」のことを考えたかと言うと、娘が「妊活」しようかな、と言っていたからです。
「妊活」とは?
「婚活」に続いて、めでたく結婚できた女性が狙う、次のステータス、「母」になるための活動ですね。
「妻」の次は「母」がターゲットになるわけです。
もっとも、多くの方々は別に狙って母親になるわけではなく、男女が結婚してしばらくすると子どもが授かる、というのは、代々続いてきた、人類の普遍的な生命の営みであります。
と言うことで、数ヶ月前に、そろそろ妊活しようかな、と娘が言っていたのですが、その後、社内の試験に合格し、本社に異動することになったので、妊活は先延ばしになったそうです。
先月末に、私の誕生日のお祝いと、娘の合格祝いを兼ねて、銀座8丁目の「出世街道」と呼ばれる通りにあるレストランで、家族4人で食事をしました。
そこで、娘から色々と話を聞いたのですが、異動先の部署でする仕事の内容が、今までとはまったく違うものになるため、仕事に慣れるまでは、そちらに全力集中、子どものことを考えるのはその先になりそうだと。
もっともな話だと思いながら、ふと年賀状の話題になったとき、娘が、来年は自分は年女だと言い出しました。
え、もう36歳になるのか。
目の前に座っている娘を見て、もうそんな年齢になっていたのかと、他人事のように驚きました。
他人さまのように思ってはいても、親馬鹿フィルターは効くものと見えて、娘は年齢よりも若く見えます。
自分が36歳の時って、どんなだったっけ?
確か、娘は小学生、息子は幼稚園児で、娘が小学校に入るタイミングで家を建てたから、その頃はもう鎌倉に住んでいて・・・。
二児の母親で、専業主婦で、小学校のPTA活動と、幼稚園の母の会の活動にいそしんでいました。
何か、昔のこと過ぎて、とても自分のことと思えない。
まったく違うベクトルながら、二人そろって超マイペースな二人の子ども。
そんな子どもたちに振り回されていた子育て時代。
思い出したくないなぁ。
今と違って、まだ体力があったから、あの魔王のような娘や、いじめられていてもそれに気が付かない息子、彼らの友人たち及びママ友、PTA仲間、子供会の面々と付き合うことができたのだな、としみじみ思いました。
もう二度とできそうにありません。
娘は来年、36歳。
その年齢から「妊活」を再開し、子どもが生まれたとして、体力的に大丈夫なのだろうか。
「孫」とは
ここまできて、改めて本日の話題、「孫」について考えるわけですが、同世代の知人には、すでに複数の孫のいる人たちもいます。
彼らの話によれば、やはり
「孫は来てよし、帰ってよし」
というのは、真実のようですね。
『私が若いうちに子どもを産んでちょうだい』
と娘さんに言ったという友人もいて、それは、自分に体力のあるうちでないと、孫の世話はできないから、という意味だそうです。
私はと言えば、まだ孫の影も形もありませんから、想像する意味もないようなものですが、
「孫はいてよし、いなくてもよし」
というのが正直なところかなぁ、と思います。
自分たちの子どもなのだから、産んでも産まなくても、娘夫婦が好きなようにすればいいし、好きなように育てればいいと思います。
クリスマス時期になると、決まって読む、アーダルベルト・シュティフターの短編『水晶』。
そこに出て来る、お祖母さんと孫息子、孫娘との愛情を思うと、祖父母と孫たちの関係もいいものだな、と思うのですが。
息子に至っては、結婚すら考えてはいないようなので、好きなように生きていってもらいたいと思います。
どんな孫が生まれてきても、どんと来い。
孫がいなくても、それもまた良し。
それが結論かな。
今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
もうすぐクリスマスですね。