続 春の鹿
今日は先週の発言を撤回せねばならない。
私は先週の記事の中で、「角川書店の『俳句歳時記』に掲載されている「春の鹿」の説明があまりにヒドいので異議申し立てる」と書いた。私はこの発言が誤りであったことを謝罪しなければいけない。そのため鹿には悪いけれど、今一度『俳句歳時記』を引用させていただくことにする。
“ 春になると、雄鹿は角が抜け落ち、雌鹿も脱毛し、まだらに色褪せて醜い。また鹿は十~十一月ごろに交尾し、五~六月に出産する。春、子を宿した鹿は孕鹿といい、やつれてものうげで、動作も鈍く大儀そうである。秋の鹿の美しさに対し、春の鹿は哀れを誘う。” 『俳句歳時記 』(角川書店 編)
先週の私はこれに対して、あまりにひどすぎる、春の鹿は決して醜くなんてない、と主張した。しかしあの時私が見たのはまだ冬の装いの雄鹿であって、現物の春の鹿は見ずに、ただ鹿への同情心のみによって言ったのである。
たったいま奈良公園に行って春の鹿を目の当たりにしてきた私の意見は違う。違うが、この歳時記の記述にはやはり反対である。実際の春の鹿はこの程度の描写ではまだまだ物足りないのである。私ならあの一文に、「春の奈良公園はさながら地獄絵図の断片を見るかのようである」と付け足さなければ気が済まないのだ。
今日はまたいやに気温が上がってぽかぽかするというよりはむしろ暑いくらいであった。私は上着を丸めてカバンに詰め込み、近鉄奈良駅から大通りに沿って奈良公園へと向かったのである。
このごろはようやく観光客の数が回復してきて、公園はそれなりの賑わいを見せている。公園の堺には柵がめぐらされていて、そこから首をつき出した雌鹿たちがずらりと居並んでいるのが見えた。彼女たちは歳時記の記述に違わず毛色の悪いボサボサとしたじつに貧相な姿をしていて、いかにもみじめな風体でこっくりこっくりと観光客たちにお辞儀をしている。お辞儀をするのは何もあいさつをしているのではなく、鹿せんべいをくれろという奈良公園のシカ独特の作法なのである。しかしそれを柵越しに首を突き出した状態でやるものだから、まるで飢えた牢獄の囚人が食事をせがんでいるかのように見えるではないか。
私は早くも春の鹿たちの哀れなムードに暗澹とした気持ちを抱きはじめるのである。
もう少し歩くと今度は雄鹿たちがいた。まだらに毛が抜け落ちた彼らは雌鹿たちにもいやましてみすぼらしく悲惨な有様である。秋にはあれほど活力みなぎる力強い目をしていたのに、春の雄鹿の目はどこか虚ろで頼りなく、横目で見られると思わず背筋がぞくっとする。彼らは亡者のように列をなして私の前をゆっくりと横切っていくのだ。次第に恐ろしくなった私は足早に公園を通り抜けた。
するとまだ若い一匹の雄鹿がやって来て、私に向かって猛烈な勢いでお辞儀をし始めたのである。いや、これはもはやお辞儀などという生易しいものではない。彼は首の骨がどうかなりはしないかと心配になるほどの勢いでぐるんぐるんと頭を振っている。彼らの姿があまりにみすぼらしいために煎餅をくれる観光客も少ないのだろうか。こうなればもうやけくそだと言わんばかりのめちゃくちゃなお辞儀である。思えば私がこの鹿に一巻きのせんべいを買ってやればよかったのだが、この時はそんな気持ちの余裕は無かったのだ。今さらながら気の毒なことをしてしまったと胸が痛む。
さらに行くと小さな広場に十匹ほどの鹿たちが寝そべっていた。この広場一面からは濛々と悲壮感がただよい、鹿たちはみな力無くうなだれ、足を投げ出し、茫然自失として地面を眺めている。広場の草は食べ尽くされて土が露わとなり、そこに点々とまき散らされた鹿フンが転がって湯気を上げている。そのうち雄鹿の一匹が低く唸りながら長く大きな生欠伸をした。彼は欠伸を終えるとそのままどかっと頭を地に着けてたおれるように眠ってしまった。他の鹿たちも少しずつ精気を失ったように目をつぶって動かなくなる。
私はこれが「春の鹿」なのかと思わず身震いした。私は確かにここに地獄絵図の断片を見る思いがしたのである…。
こんなことを書くと奈良の観光協会の人が見れば立腹するかもしれない。もちろん実際の春の奈良公園はこれほどまでには凄惨ではないはずだ。私も春の陽気でどうかしていたのだろう。あるいは陽炎が見せた幻影だったかもしれない。とはいえ春の鹿があの『俳句歳時記』にあるようにみすぼらしく哀れな有様であることには違いない。奈良公園の美しい鹿たちに囲まれることを夢見る人は決して春には来てはいけないのである。
しかし春の奈良には他にもっと美しいものがたくさんある。「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛り」なのである。
鹿と遊ぶよりは若草山にのぼってピクニックでもするほうがずっといい。あるいは古き良き大和の古寺を巡るのがもっともおすすめである。
引用:
『俳句歳時記 第五版 春』(角川ソフィア文庫)
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