三山木さんしょ
季語の生きものたちの考察記録🌾
深い藍色に染まった空の下をコウモリたちがせわしなく飛び交う。 彼らはジグザグと軽快に羽ばたきながら、羽音なのか声なのか、ときどき音を発する。その音を文字にするとどうなるか、ということを私は今悩んでいるのである。 例えばパタパタとかカタカタとか、そういう音とは違う。もっと濁った音だ。 ジジジジ…。違う。 ジキジキジキジキ。 そう、何となくゼンマイ仕掛けのような、こんな音がするのだ。 コウモリは哺乳類の仲間では唯一自在に空を飛ぶことができる生物である。彼らの体にはきっと何か機械仕
池の上に並べられた太陽光パネルに一羽のアオサギがとまっている。彼は堂々たる両翼に夏の陽光をさんさんと浴びて放心状態である。 太陽光パネルは休みなくふりそそぐ日の光をせっせと電気エネルギーに変換して人々に供給し続ける。石油石炭は空気を汚すし、原子力に頼ればあと始末が大変だ。ならば今度は太陽から直接エネルギーを奪ってやろうなどと、われわれ人類の探究心は果てがない。 アオサギはこうして羽を広げて日光をさえぎり、人類の文明の発展を少しでも食い止めようと一人頑張っているのである。 だ
もし鵜の風貌を見て「彼は善人か悪人か」と尋ねられたとしたら、十人に十人が「悪人である」と答えるだろう。魔物のような黒い大きな体にぎょろっとした緑の目、先の曲がった長いくちばし、蛇のごとくうねる首…。 いかにも悪の風体という感じがするではないか。 わが家の近くの池の岸にもそんな悪魔の使者たちがものものしい集会を開いている。 しかしその恐ろしげな見た目に反して、彼らの集いは極めて平和で友好的である。互いに干渉し合うわけでもなく、ただ一緒にいたいから一緒にいるというような、実に朗
人の頼みをつっけんどんにはね返すという意味の言葉で「けんもほろろ」というのがある。この「ほろろ」とはキジのホロ打ちのことで、羽を激しくはばたかせてドドドドドと大きな音を立てる習性を指す。「けん」はケーンケーンと鳴くキジの声である。ケンもホロロもオスのキジが見せる仕草なのだ。 一方メスのキジについては「焼け野の雉子夜の鶴」という美しいことわざがある。彼女たちは大変に母性愛が強くて、春の野焼きで雛たちが燃えてしまいそうになると、自らの体で覆い隠して子どもを守ろうとするのだという。
満開の桜がはらはらと散る。そんな儚い無常に美を感ずるのが我ら日本人の常である。 若い緑の芝生には世の無常を知らないセイヨウタンポポが点々と花開いていて、ここにひとひらのシジミチョウがとまっている。タンポポの溌剌とした黄色に比べていささか地味な色合いの彼は、ヤマトシジミという名前らしい。 ヤマトシジミは春の日差しを受けるためにそっと羽を広げる。すると青灰色の羽表の縁がきらきらと光る。光の角度によって微妙に鱗粉の輝きがかわって、ときどき鈍く明るく光る。風が吹くとそれをすぼめて灰色
今日の春の季語は「鰆」。 魚偏に春と書いて「サワラ」と読む。 サワラはサバ科の回遊魚で北海道南部から東シナ海にかけて広く分布しており、体長は大きなものでは1メートル以上にもなる肉食の魚である。成長にともなってサゴチ→ヤナギ→サワラと名前を変えるいわゆる出世魚というやつで(名称は地方によって異なる)、サワラと呼ばれるのは体長60センチ以上になったものだけなのだ。 彼らは子ども時分から実にたくましくて血気盛んである。大きな口には鋭い歯が並んでいて、時には自分の体と同じ大きさ程も
花盛りにはまだ少し早いけれど、奈良公園の桜もぽつぽつと蕾をほどいて顔をほころばせはじめた。それが連日の春雨にうたれて今日は何とも心細そうにうつむいている。 脇道の奥では二頭の雄鹿が頭を突き合わせていて、いよいよケンカが始まるかと思って見ていると、そのうちお互いに目の上など優しくペロペロとなめだした。私は「ははあ」と思ってそれ以上は見ないでおくことにする。 桜の木陰は二人をそっと隠して、春日大社の参道には、春の行楽が次第に賑わいを見せ始めたようだ。 そのむかし空海上人のまだ若
空高くで声がしたから見上げてみると、それはツバメたちのにぎやかな談笑であった。 私はかつての平城宮の跡地にいて、頭上には電線の無い広い広い青空が広がっている。そこに南から帰ってきたばかりの三羽のツバメが景気よく鳴き交わして、せわしなく羽ばたきながらジグザグと凱旋飛行しているのだ。 何とも清々しい初燕たちである。 その年初めてウグイスのさえずりを聞くことを初音というのは知っていたが、初めて見るツバメを初燕と呼ぶことは知らなかった。けれど彼女たちが帰って来た最初の日はいつだって
今さら啓蟄の話か、と思われるかもしれない。今年の啓蟄は三月六日であったから、かれこれもう二週間が経つわけだ。 二週間…。二週間なんてあっという間なのに、歳時記にのめり込んでみると、たった十四日の間に世界が目まぐるしく変化していることに驚かされる。 啓蟄の蟄は「土の中で冬ごもりしている虫」、啓は「ひらく」という意味で、つまり啓蟄とは土の中で眠っていた虫たちが春の訪れを知って穴から出てくる時分をさす。 私の周りでは三月六日にはまだまだ虫たちは眠りの最中であったが、二週間経った今
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る これはまたずいぶん乱暴な一句である。 歳時記を開いて頂ければお分かりの通り、雀の子は立派な春の季語なのである。俳句の主役は季語なのだ。その主役にそこのけそこのけとは何という口のききようか。 などと二百年も昔の句に文句を言っても仕方がないが、実際スズメたちは何となくいつもないがしろにされているようで気の毒だ。 私は野鳥が好きでとくに身近な鳥たちのことを愛しているが、雀にはたいして関心がないというのが正直なところである。それは彼らがあまり
今日は近所の池でオオバン観察だ。 と言われてもオオバンが何か分からない人もたくさんいるだろうから、初めにざっと説明しておくことにしよう。 彼らは黒くて丸々と太った体に白いクチバシをもつ一風変わった水鳥で、カモのようにプカプカと水面に浮かんでいるがカモではないという何ともヘンテコな野鳥である。ヤンバルクイナなんかと同じクイナの仲間だからもともと地上で暮らすべき鳥であったが、いつの頃からか水上での生活を送るようになったらしい。そのくせ決して泳ぎが上手というわけではないので、不格
今日の春の季語は「望潮」である。こう書くとめったには読める人もいないだろうが、望潮とはつまりシオマネキのことである。 シオマネキというのはあの干潟に住んでいる片方のハサミだけが異様に大きなカニの仲間たちで、大きなハサミを左右にはためかす様子を干潟に波をまねく姿に見立てて「潮まねき」という名前がつけられた。 近年はずいぶん数が減って絶滅が心配されているということだが、九州の有明海にはまだまだたくさんのシオマネキたちが暮らしており、ムツゴロウとともに干潟の人気者となっている。
鳥帰る。 何と哀しい季語だろう。 春の訪れに舞い上がってばかりいた私は、それが冬の終わりであるということをすっかり忘れていたのだ。 草は枯れ、木は葉を落とし、虫たちは眠り、空は曇り、そんな荒涼たる冬景色の中に飛び交うにぎやかな冬鳥たちが、どれほど私の心を優しく温めてくれていたことだろう。 それなのに、私が春めく季節にうつつを抜かしている間に、彼らはいつのまにか姿を見せなくなっていたのである。私は自らの愚かさを深く顧みなければいけない。私は何と馬鹿だったんだろう。もう冬鳥たちは
今日は先週の発言を撤回せねばならない。 私は先週の記事の中で、「角川書店の『俳句歳時記』に掲載されている「春の鹿」の説明があまりにヒドいので異議申し立てる」と書いた。私はこの発言が誤りであったことを謝罪しなければいけない。そのため鹿には悪いけれど、今一度『俳句歳時記』を引用させていただくことにする。 “ 春になると、雄鹿は角が抜け落ち、雌鹿も脱毛し、まだらに色褪せて醜い。また鹿は十~十一月ごろに交尾し、五~六月に出産する。春、子を宿した鹿は孕鹿といい、やつれてものうげで、動
大変なことが起こった。 私がいつも通る道の途中にカラスが巣をつくったのだ。子育てに奔走するカラスたちは狂気そのものであり、繁殖期のカラスめらは我が最大の敵なのである。 私はこれまで何度彼らに襲われてきたか分からない。ただチラッとその巣を見ただけなのに…。 そんな「鴉の巣」が春の季語だとは知らなかった。うららかな春を脅かす恐怖の季語である。 もっとも今は関西に住んでいるからカラスはそれほどの脅威ではない。関西人の強烈な反撃を恐れて彼らもむやみやたらに人を襲ったりはしないからだ
ふと気がつけば池にはもう亀がいた。 どうやら冬眠から目覚めたばかりらしい。 亀は水面に浮いた枝にひじをついて、体をなかば水に浸しながらぼんやりと遠くの景色を眺めている。そうやってかなり長い時間彼はそのままであった。私は池にめぐらされた遊歩道の手すりにやはりひじをついて、だらしなく体をもたせながらそれを眺めている。 亀は水に揺られながら何か遠い昔の出来事を思い出しているようであった。新たな春を喜んでいるというよりは、またこの世に生まれ出たことを憂いているのかもしれなかった。 私