短歌、音楽、ぼくの人生とか。雑記。
本当に遺作にしたいと願って最近はいつも作る。
現在の僕が抱えているものが僕だけになったとしたら、きっとそうしたい。
初めて入院した高校二年の夏のことをこの時期には思い出すけど、今年は特にそんな夏で、でもそれは別に悪いことではなくて、僕はその入院が短歌を始めた夏だったから。
あんまり暑くない。僕はほとんど汗をかかない。こないだ友人が部屋で汗をかいていて、気遣いが足りないと思ってクーラーをつけた。
いまは間違いなく自分の首をぶっ刺すことがわかりきっているので、メロンを割るために包丁を握らなかった。少しでもキッチンで、包丁の煌めきをみて間が空いたら、終わる。
でも、僕は幸いなことに電子音楽家として少しずつ評価されはじめている木田昨年とかいう人間だった。
メロンの音を聴いて、熟し方を確かめたり、小突いたり、叩いたりして、中の水の音を聴いた。そうすると、中央に空間がありそこに水が溜まっている、外壁に疲れた脱脂綿みたいな果肉がこびりついている。そんな中身が目に見えてわかってくる。
結局、中学理科の公式で計算して綺麗にメロンを割った。mechanical advantage(機械的倍率)をmelonical advantage(メロン倍率)とか言っているあいだ、笑っているようで、全然笑えていない。メロンは美味い。僕は小さいときから果物がすきです。
地元では有名な進学校に通っていたから、朝は五時に家を出て、帰るのは七時くらいだった。もうずっと壊れていたのに、よくそんなサイクルをやっていたな。家の事情も複雑で、休めていたとはいえないし、勉強するふりしてらき☆すた観てた。成績は全科目学年一位をキープした。覚えて、使う。勉強の何が難しいのかわからない。何に、使うのかが難しいだけだろ。
小さいころから血圧の病気があって、それがひどくなって大学病院に紹介状を書かれた。高校二年。
検査をして、脈が一分間に150くらいあった。「それはほんとうは、立っていられないんですよ」と言われて、すこし横になることを促されたけど、遠慮した。
「お母さん、少し外に出ていてもらえますか」と医師が言ったので、母が外に出て行った。
こいつ、何を言ってるんだろうと思っていたら、医師と二人きりになって、「何を考えているの?」と訊かれた。
僕は無意識に振り返って、母が出て行った白くて綺麗な扉を見た。すぐに向き直ると、綺麗な白衣の医師がいた。僕は何か白いものに呪われた気分になる。
「別に何も考えていないです」と答えたら、精神科にそのまま繋げられて、一先ずカウンセリングを受けることになった。
僕がその返事をしたとき、どんな顔をしていたのか、確かめる方法があるなら見てみたい。
カウンセリング室では、もう帰りたくて顔も見ていない優しげな女性の声が眠れているかとか、ご飯を食べているか、とか、そんなことをずっと質問してくれた。本当にありがとう、うるさい。
「死にたい、と思うことはある?」
と訊かれたときに、ちらりと見ると手元にチェックシートのようなものを持っているから
「ないです」
と言った。
僕の最初の診断は、この返答によって「抑鬱状態」に留まる。
なのに、何がこぼれ出てしまっていたのかわからないが、とにかく精神科に入院を勧められて、休学して、入院した。
病室は四人部屋になっていて、ベッドに白いテーブルが差し込まれている。
何をしたらいいかわからないから、僕はテキストを置いた。
なぜか、とても綺麗な家に引っ越したような気分になって、僕の部屋がいかに淀んでいたかがわかった。
でもね、ここは無菌室みたいだ。そんな場所にいることは、長くつづかないし、嘘だとおもった。
ここで出会った人たちのことは、筆舌に尽くしがたく、雑多な文章と同じ場所に彼らのことを置いて行けない。僕は病室から端っこだけ見えた花火を、初めて短歌にした。それだけがある。
僕の、一番最初の歌。
〈病室の強化硝子が割れるほど花火が咲いた、咲いた迷惑〉
今から短歌を始める人、その流行の商用利用の流れ、最近のインターネット歌人たちにひとつだけ、言えるとしたら。
ポケットに入れられるサイズの感情だから三十一文字なんじゃない。ポケットから溢れ出した、3000字ぐらいの感情や情景の、抑えられなかったうつくしいきらめきを、短歌と呼ぶんだよ。勘違いするな。でも楽しんで。
#tanka 。その草創期に、僕はいた。もう使ってないペンネームはいくつもある。その一つ。もう今はない、『うたよみん』というアプリ。あれの「注目の歌人」という欄があって、そこに選ばれて、ただそこにいた。
つまらない歌ばかり並んでいる中で、唯一面白かった歌人がいた。話したことはなかったけど、作品がとてもよくて、見ていた。
その人は現在、言葉を扱うインフルエンサーになっていて、僕はそれを知らなかった。偶然いいなと思って、フォローしたら、DMで話しかけられて、ペンネームを完全に変えた僕を短歌作品の癖だけで、誰だか見抜いてくれた。あなたのファンだと、作品を全て暗誦できると、言ってくれた。そんな人に木田昨年という名前で長い時間をかけて、再会した。いや、初めましてだったな。僕もあなたのファンです。とこっそり、ここに書いておく。
勉強は一人でもできたよ。単位も落とさなかった。
無事に僕は進路を決めて、生きて、挫折して、もう二度と誰にも見せないつもりで記録的に作品を作っていたら、気がついたらありあまるほどの文学賞と、大切な友人たちと、ひらひら綺麗な紋白蝶が、そこに飛んでいた。ありがとう、ごめんね、としか僕は言えない。
遺作のつもりで、最近は作る。今は文学から落とし込んでいく、音楽を。高校二年の夏によく似た肌触りの夏が、もう来ていて、みんなの言うとおり、27クラブにぶち込まれそうだ。木田昨年は天才だと、みんなが言うようになった。木田さんって、昨年さんって、ねおちゃんって、ねんくんって、さっちゃんって、みんないろんな呼び方してくれる。もうこの名前、捨てたくないんだ。
いろんな蝉の声を録りたい。
2024.6.27 木田昨年
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