その②「自我」を超越する方法
こんにちは。橘吉次です。
「人生後半を本気で考える」その②をお届けします。
前回その①では、生まれ直しの心得をお届けしました。
昨今、定年予備軍の方向けの「ライフシフトセミナー」などがアチコチで開催されておりますが、ライフシフトとは収入確保のための転職や副業をさすのではないと吉次は考えております。
有限の人生後半をどう生きるのか?
生き方変更がライフシフトです。
生き方の変更とは、マズローの人間欲求の5段目「自己実現」の先を目指す、自我超越ではないか?という提案を前回いたしましたが、皆様はどのようにお感じになったでしょうか?
今回は、自我超越とは何か?
どうやれば自我超越ができるのか?
について、ご説明申し上げます。
そもそも「自我」ってなに?
私たちが、生れ育った時代は「近代」です。
日本は明治維新によって、近世を脱する大変な改革を成し遂げ近代化の道を進み始めました。
その初期にとった宗教政策が、神道の国教化(最終的には国教にはなりませんでしたが)とキリスト教の排除です。
ここで大きな矛盾が生じました。
近代という時代は、キリスト教的世界観を土台にして生まれた時代です。
この↑上文を説明すると異常に長くなっちまいますので、割愛いたしますが、近代とは一神教であるキリスト教の『「唯一絶対の神」と「個人」が真正面から対峙する』という物語の上で発展し開花した時代なのです。
対峙した神がひとりの人間の生き様をみて、死後に天国往きと地獄落ちを決めるのが、最後の審判ですよね。
ご存じのように、キリスト教はユダヤ教から派生した宗教で、イスラム教とは兄妹みたいなものです。この3つの宗教はどれも、唯一絶対の神を崇める一神教です。
この唯一絶対の神の前に、社会的属性を一切排除した状態で対峙する「自分」
もうこれ以上、分割できないindividualな「自分」
これが「自我」なんですよ。
つまり、日本人だとか、〇〇企業に所属しているとか、橘吉次という名前を持つ女性(あっ、私は女です)であるとかの、社会的属性を一切排除した、丸裸の個人精神が「自我」なのです。
ですから、
キリスト教の世界観では、
神と人間個人はパッカーンと離れて対峙しています。
世界と自我もパッカーンと分かれています。
このパッカーンと分離している状態だから、世界を客観的に把握することができて、近代自然科学が生まれたんですねー。
あー、今回は非常に難解な話で誠に恐縮なのですが…。
もう面倒だったら、今までのところなど忘れていただいて結構でーす。
大事なのはここから!
日本には神道があったのだー!
しかし、日本には縄文の昔から大自然を神と崇める多神教の文化がありました。
「神道」です。
多神教の神道は、
<自然=神・人間=自然・よって人間=神>
と、全く分離していない「もーっ、みーんな一緒だよね。ニコっ」という精神文化なのです。
この、
「もーっ、みーんな一緒だよね」という精神文化を持つ「神道」を国教にして、キリスト教を排除し、
なおかつ、神と人とがパッカーンと分かれたキリスト教世界観の中で発生した近代技術や思想のみを受け入れて改革を成し遂げたのが明治維新なのです!
(はぁーはぁーっ…息が切れる…)
もう、とんでもない矛盾を抱えて日本の近代化はスタートしました!
だから、「近代的自我って何?なんだかよーわからん…」と、夏目漱石も森鴎外も苦しみました。
当然、私たちも苦しむはずなのですが、へっちゃらです。
自我ってなんだ?なんて悩みませんよね。
なぜなら、私たちは「神道」を知らずに育ったからです。
第二次世界大戦で負けたあと、アメリカに占領され、神道は完全に否定され壊滅的に破壊されました。
私たちは縄文から続いた神道思想を知らずに「西洋キリスト教的近代自我」を無自覚に受け入れているのですよ…。
しかし、どうもこのキリスト教由来の「自我」って日本人の体質に合わないようです。
自我と自己の区別がつかず、偏った個人主義が蔓延して日本人は「つながり感不足」の渇きを感じているんじゃないかな?
便利で快適な生活なんだけど、なんか生きにくい。
なぜか満ち足りない…。
そんな風に感じる日本人は多いはずです。
何故そうなるのか?
その説明をいたしましょうー。
西洋的自我と日本的意識の主体
下記の図は有名な「ユング心理学の自我とSELF」の概念を図にしたものです。
これは、私が敬愛する河合隼雄先生の論説を参考にしました。
<注意>
自我をエゴ、SELFを自己と表現している書物もありますが、まあ言っていることは同じでしょー。
ご存じのように、人間には自覚できる「顕在意識」と自覚できない「無意識」があると言われています。
ユングは、この無意識を個人的無意識と集合的(普遍的)無意識に分けました。
個人的無意識は、私たちが自覚していない自分のこころ。
集合的無意識は、所属している集団に共通している無意識。
まあ、民族性とか、県民性とか、社風とか…そんな感じのものです。
私たちが普通に「私は…」とか「自分は…」というものを、仮にAとします。これが「意識の主体」です。
西洋近代的自我とは、顕在意識の中心にあるAです。
個人意識の主体がはっきりしていますね。
ところが、日本人の場合、このAはぐーっと集合意識の方向に引っ張られてぼやけています。
個人意識の主体が、ぼやぼやで曖昧です。
日本人は意見を持たない!意思がない!
あいまいな表現でごまかす!
という批判を海外から浴びてしまいますが、しょーがないのよねー。
だって石器削ってた時代から神様も人間も、みーんな同じという意識でいますから、自我なんてハッキリしていないのです。
ところで、この図を見ると、日本人の集合的無意識は世界に開かれていることがわかります。
そもそも日本人は、意識の主体Aが、集団や世界に溶け込んでいるのです。
逆に言えば、
世界=私、自然=私、みんな=私、いのち=私という、
非常に広大な範囲を顕在化して生きている!ということもできるのです。
これが、昔の日本人の生き方です。
縄文時代から続いている「神道的生き方」です。
現代は、この生き方が否定され狭い顕在意識に自分を押し込めている。
これが、生きにくさの正体ですね。
つまり、
自我を超越するということは、顕在意識に固定されている自我を捨てて、世界に開けている集合意識に意識の主体Aを下ろしていくことです。
すると、無意識の奥に潜む「SELE」に出会うのです。
無意識の奥に潜む「SELF」
これが、日本でいうところの「魂」なんですよ。
見直されている日本的価値観
西洋キリスト教的世界観から成り立つ近代科学は、大変な恩恵を人類にもたらしました。
快適で便利な生活!
衣食住の全て、社会体制の全てにおいて、人類は後戻りできない素晴らしい文明を築きました。
ですが、今ひとつの壁にぶつかっています。
それは、この西洋近代文明がホントに人間に幸福をもたらしたの?
なんかちょっと違うかも…という壁です。
原子力や殺戮兵器や、行き過ぎた延命治療や…
挙げればきりがありませんが、そんな停滞感の中で古来からの日本人の価値観は見直されています。
大いなる自然の一部として人間生命を位置づける価値観です。
あまりにも、自然サイクルからはみ出してしまった近代科学文明は、
人間から「生きている実感」を奪っているのかもしれません。
あなたも壁にぶつかっているのではないでしょうか?
人生は有限であることを、心から実感するのはミドルエイジ以降です。
残された時間をどう使うのか?
本気で自分の人生に向き合う時がやって来たのではないでしょうか?
自分にとって、本当の幸せとは何なのか?
自分は「生きている実感」を持っているのだろうか?
そんなとき、かつての日本人の価値観が役立ちます。
昔の日本人は、己の魂に従って生きていました。
その生き方の智慧は神道に残されています。
吉次と一緒に、魂を見つけ生き方を変える「生まれ直し」を学びませんか?
何度でもいいますが、
ミドルエイジのライフシフトはただの職業変更ではありません。
生き方を見直す時です。
是非「生まれ直し開雲塾」に入塾くださいませ!
第2回はここまで。
最終回は「魂」についてお話申し上げます。
(「人生後半を本気で考える」その③につづく)
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