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「すずめの戸締まり」ミミズと要石の神道的擁護論
こんにちは。橘きちじです。
新海誠監督<すずめの戸締まり>を観てきた。
新海監督は<君の名は><天気の子>と、たて続けに神道的世界観をベースにした優れたアニメ映画を世におくりだしている。
前評判の高いこの作品に期待を寄せて、ひとり上野の映画館へ!
細部を見逃すまい!と気合を入れ、瞬きもせずに過ごした2時間半の感想を述べる。
あっ、ネタバレありますのでご注意ください。
ミミズは禍なのか?
「戸締まり」とは、一般的に家屋から外出する際に、外部者が侵入しないように戸を閉めることを言う。
この行為は、
「外部侵入者は泥棒などのを悪事を働く」という思考が前提になっている行為である。
もし、「悪事を働く」という前提がなければ、戸締まりなんてしない。
ちょっと昔の牧歌的な村落では、戸締まりなんてしなかったらしい。
「ちゃんと戸締まりした?」って言葉、今の若い子でも使うのかな?
「鍵かけた?」とか「セコムした?」とか、言うのじゃないかしら?
それはさて置き、戸締まりとはそーゆーものだ。
この映画に於いて、
家屋は「現世」
外部は「常世」
侵入者は「ミミズ」だ。
そこで「戸締まり」をするわけだから、ミミズは悪事を働くのだ。
それが地震という設定。
この設定から、二つの物語が喚起される。
一つは、村上春樹の著作「かえるくん、東京を救う」
村上主義者ならば誰でも知っている短編名作だが、地下のミミズが地震を起こすという設定は全く同じだ。
もう一つは、江戸時代の都市伝説。
「地下のナマズが地震を起こすから、その頭を大岩で押さえて地震を防いでいる」という物語だ。
このナマズの頭を押さえている大石を「要石」という。
有名どころでは、鹿島神宮の「要石」
江戸時代1855年安政の大地震は11月におこった。
それは神無月であり、ナマズを抑える鹿島神宮の祭神、武甕槌神が出雲に出張中だったために、ナマズが調子に乗って起こした地震だった。
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この物語の浮世絵はたくさん残っているけれど、どれもユーモラスだ。
動くことを制限されていたナマズが、ちょっと運動したくなったとしても
「そりゃまぁ、しょーがねーわなぁ」という江戸庶民の達観した表情が見えるようだ。
これは、江戸時代の人々が「ナマズに悪気はない」という思想があったからではないだろうか?
翻ってこの映画のミミズは「悪気」があることが前提だ。
姿もおどろおどろしく、禍の象徴のように描かれている。
東日本大震災がテーマのひとつになっているから仕方ないが、
ミミズ=禍=悪
すずめと草太=閉じ師=人々を災害から救った正義
という、解釈は単純すぎるし面白くない。
魅力的なテクストとは、単純な二元論で片付かない様々な解釈の余地を残してくれるものだ。
よって、今回は「ミミズに悪気はない」という角度でこの映画を解釈してみたい。
あの世とこの世の境界侵犯
ミミズは常世からでてくる。
草太は常世のことを
「この世界の裏側。ミミズの棲家。全ての時間が同時にある場所」と説明している。
民俗学的には、常世とは死者の魂が往くあちらの世界のこと。
もし、ミミズが災害をもたらす悪しきものならば、その棲家の常世も悪しきおぞましき地獄のような場所だろう。
しかし、新海監督の描く常世は、星降り天の川が流れる美しい夜の世界だ。
常世は地獄ではない。
つまり、ミミズは悪しきものではないし、
みみずそのものが禍なのではない!と考えることができる。
では、なんでミミズが倒れる時に地震という災害が発生するのか?
これは境界侵犯だからだ。
境界を犯すことが禍であり、厄災をもたらすことなのだよ。
あの世とこの世の境に、大岩を置いて生死を分離したのは伊弉諾命だ。
(詳しくは下記の記事をご覧ください)
生死の境界線は決して犯してはならない。
いや、正確にいうならば正しい扉を通らねば、あちらとこちらは行き来してはいけないのだ。
すずめの戸締まりで、ミミズがでてくる扉はすべて「後ろ戸」だ。
「後ろ戸」があるならば、どこかに「前戸」があるはず。
それが、正しい扉じゃないのか?という仮説をたててみた。
生者が死んで、常世に行く。
死者が生まれ変わって、常世からこの世に生まれる。
縄文の昔から日本人が持っている「命は循環している」という死生観に基づく正しい扉。
これが前戸なのではないか?
(新海監督はそんなこと考えてないかもしれないけど…)
「後ろ戸」からの逆流。
これは禁忌なのだ。
これが禍になる境界侵犯なのだ。
だから、必死になって扉を閉める。
扉を閉めるときの祝詞のようなおまじない
掛まくも畏き、日不見の神よ。
遠つ御祖の産土よ。
久しく拝領つかまつったこの山河、かしこみかしこみ、謹んで…
お返し申す!
日不見の神ってなに?
少なくとも『神道事典』には掲載されておりません。
色々解釈ができそうで、面白い。
① モグラ(土の神を象徴している説)
② 火と水(ラストの常世は火の海だし、ミミズが倒れると必ず雨が降る)
③ ひふみ(物部系の祝詞)
まあ、これは各々愉しんでいただくとして、ポイントは「お返し申す」だろう。
何をどこに返すのか?
この祝詞?には鎮魂の意味があるのだね。
兼務社2桁!あなたが要石
後ろ戸が開く場所は、決まって廃墟だ。
東京は廃墟がないから、明治維新で捨てられた御茶ノ水の寺社あたりがモデルになっているのだろう。
(これ葛飾区の立石だったら面白かったのになぁ…。立石には要石があり、立石様と呼ばれている)
人間の都合で開拓されて、人間の都合で捨てられた土地が廃墟だ。
開拓するときには地鎮祭など斎行するだろうが、捨てるときは多分そのまま。
なんの儀礼もない。
その人間の無礼に、土地の神が怒っている。
その象徴がミミズだという解釈ができる。
つまり「お返し申す」には二重の意味がある。
・常世から逆流してきたものを、元の場所にお返しする
・人間がお借りしていた土地を、謹んでお返しする
その土地に、人間が健やかに幸豊かに暮らしていればそれが要石ともなるが、見捨てられた土地は後ろ戸になるのだ。
そう考えれば、過疎化した地方で誰もお祀りしなくなった神社など、まさに後ろ戸となるだろうな。
パワースポットだ!
龍神様とつながるー!
などと、浮かれている民衆の知らぬところで、ひたすら要石の役割を果たしている神職はたくさんいるのだ。
地方に行けば、小さな社を10社、20社兼務している神職だらけだ。
大きな神社はともかく、小さな社は運営するの大変なのだ。
経済だって豊かじゃない。
でも、先祖代々引き継がれた神社を守らねばならない。
守らなければ、後ろ戸が開いてミミズがでてきてしまう。
草太が人知れず閉じ師だったように、今日も私たちの生活を人知れず守っているひとがいるのだ。
そんなことを、思い起こす映画だよ。これ。
まだまだ、書きたいことがあるけれど、ひとまずはここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。
映画って一度しか見られないから、見落としているところもあるだろう。
小説も読んでみて、続きの記事を書いてみようと思っております。
では。
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