自分を知る映画:1917
観てきたばかりのこの映画、第一次世界大戦中に大切なメッセージを伝える為に命をかけて奔走した若いイギリス人兵士のストーリー。
託された手紙を届けるというシンプルな任務の影にある苦悩が蘇った。わが踊り狂いの人生が再スタートしたのは、アメリカ合衆国郵便公社を辞職以降だったから。
そんな配達員時代のほのかな哀愁も吹き飛ばしてしまう人の死に目。その神がかりなモーメントに遭遇した人達自身の人生とはそこから劇的に変化する。
その仕事を始めた当初、ピッツバーグ郊外の施設で郵便仕分け員として勤務時代に出会った同僚達を思い出さずにはいられない。彼らの多くはベトナム戦争や湾岸戦争帰りの元兵士達だった。
地図上ではニューヨーク州と同じ東海岸として位置するペンシルバニア州。ここから西へ向かって8時間も運転してもまだペンシルバニア。とにかく横に長くデカい。。そこまで行けば、中部地方(ミッド・アメリカ)と大差ない、ステレオタイプなメンタリティーと大差無くなるのを2年間住んで感じた。
アメリカ人である主人の地元は五大湖のひとつであるエリー湖から車で一時間ほど南下した位置にある。ピッツバーグ郊外の景色を説明するには、1978年に上映された『ディア・ハンター』を観てもらえばかんたん。アカデミー賞も受賞した3時間にわたる名作はオススメ。舞台にもなったクレアトンという街のように、15分も運転すれば鹿狩りができる深い森林に囲まれている。それが彼の生まれ育った環境だ。
日本でも既に変化しをとげた景色が物語るように、アメリカでも郊外のモールの近くに高速道路が通っている。高速道路への入り口近辺には広大な敷地に設けた工業団地がある。長距離トラックの荷物の積み下ろしの利便性をあげる為。
私の仕事場の簡素な作りの巨大倉庫といったところ。そこには何台か巨大な機械が置かれていたプライオリティー・メールを主に取り扱っていた。唯一の日本人として働きながら、そんな環境下で元沖縄や横須賀駐在者がいたり、片言の日本語を話せるアメリカ人達に出会うのは予想以外の展開だった。
というのも、私と主人はイラク戦争が勃発した2003年から18ヶ月の東南アジアとインドの旅に出ていた。旅先ではたまに駐屯地へ移動中のアメリカ兵士の団体に街で出くわしていた。
それと同時に、現地の地元の人達から聞いた話、外国人である私たちへの対応の仕方、時折飛び出す流暢な日本語、足を踏み入れてはいけないと農家のひとたちに引き留められたタイとラオスの国境沿いの山中一帯に残されたままの地雷、ライフルを持った兵士達がうろつく山頂で丸焦げになったまま放置されている長距離バス等々を目の当たりにしていた経緯から興味が深まった。
他の旅人が宿で残していった戦争関連の本や地元紙を手に取った。私は学校での勉強がまったくダメだったので、ここで初めて戦中に植民地となった歴史の残酷さを間近に感じていた。バックパックを担ぎながら垣間見るその都度、同じアジア人である私には、初めて渡米した時よりもカルチャーショックが大きかった。
貧乏旅行の果て懐がすってんてんになった。物価の高いニューヨークへ戻る為ひとまずお金を貯めようと決めて、まずは主人の地元へ引っ込んだ。歩いて行ける距離にあったスーパーのチェーン店『ジャイアント・イーグル』のビューティー・コスメ部門の商品出し、時給6ドル50セントのパートタイムの仕事を見つけた。彼の方は幼馴染みのお父さんが経営するアパートの管理人を引き受け、その報酬としての破格の家賃月250ドルだった。それと材木屋やペンキ塗りの仕事を兼ねて月1000ドルあれば二人暮らしは余裕だった。
ピッツバーグでの最低賃金の低さが辛くなかったのが逆に辛かった。生活費はモチロン安く済ませられる。でもそんな調子ではニューヨークへ戻る夢などまた夢で終わりそうなのが怖くなった。
そんな時、繁忙期のホリデーシーズンに向けての契約社員募集の求人広告を新聞で見つけ、時給10ドル以上の仕事だとふたりとも飛びついた。そこで共に働いた人達にはニューヨークへ転勤するまで本当に良くしてもらった。今でもクリスマスカードを交換したり、フェイスブックで繋がっていたりする人達もいるのは有り難いことだ。
こんな単純な理由で選んだ郵政省という職先が、まさか「軍人の天下り先」とは知らなかった。戦争から帰ってきた兵士たちの受け皿として機能している。最低4年のミリタリー経験さえあれば連邦政府雇用の試験の受験資格を与えられる。勤務年数によって5点や10点が上乗せされた合計点となり、優先的に入局できるという事実は同僚たちから直接聞いて知った。余計な説明が長くなっているが、そうこうして旅から戻った私は、今度はアメリカで米兵側から同じ戦争の傷跡をふたたび目の当たりにした。
入局した当初の季節労働期間は、ハロウィーンから始まりサンクスギビングやクリスマスまで。この間、郵便物の量が大幅に倍増し、機械だけでは追いつかない状態になる。そこでメンテナンス部署の電気系や機械いじりが得意な(やはりここにもミリタリーあがりの人がとても多かった)作業員達が何台も設置した臨時のベルトコンベアーに横一列にメイル・ハンドラーという作業員が並び、ベルトに上がってきた様々なカタチと階級の郵便物を手作業で仕分けした。
カテゴリー名がそれぞれに付いたブルーやオレンジ色で底にタイヤが付いている「ハンパー」と呼ばれる樹脂製コンテナを押したり引いたりして移動させる。重ねて収納することも可能なのだがふたりでしか持ち上げられない重さ。
皆がいっせいに小包を仕分けしながら投げ入れているその最中、発狂したように甲高い声で鳴き始めたひとがいた。スターウォーズの「トントン」のものまねをしている様子。ダチョウ走りで突然通路を駆け巡り続けるアーミーと刺繍の入ったベースボールキャップを被った同僚に唖然とした。
やがて転勤したロングアイランドでの職場でも、同じ平らな封書のみをさばく機械で共に働きながら話しをしていた同僚の酒臭い息に気づいたと思ったら、たまにひとりで涙ぐんでいるのも見たことがある。いつの間にかその彼が出勤しなくなっているのに気づいた頃には、風の噂で局から直接AA(アルコール依存症の人が治療する施設)に送り込まれたと知るのだが、その後も入退院を繰り返し、やはり元兵士だったのでクビになるどころか、手厚く扱われている印象だった。
戦争映画に出てくるまんまの元ドリル・サージェント(鬼軍曹)がスーパーバイザーとして勤務している頻度が高い事情から、特にあの時代の郵便局からは「軍隊ノリ」はどうしても抜けなかった。ティムというやはりバリバリのミートヘッドのボスはワケもなく厳格さだけが特徴だったので、私を含めた民間人達にとって、かなり理解に苦しむ体制下で働いていた。「ハリー・アップ&ウェイト(急げからのちょっと待て)」とはこの頃によく耳にした英語であり、郵便局と米軍に深く関わることばでもある。何処で何が誰を襲い襲われるか安堵感ゼロの戦場のような行き当たりばったりな様子が顕著に表れている。その心とは、ってまず心はないので深い意味自体が無い。
一ヶ月の夜勤の季節労働者として私と一緒に働き始め、300人以上の中から6人のひとりに選ばれ残ったマイクも元ミリタリーに居た人だった。昼間はウォールマートの商品出しをしながら二つの仕事を掛け持ち、大学に通う娘の学費を捻出していた。局の仕事帰りの朝に居眠り運転中にトレイラーにブレーキもかけず突っ込んで即死した。その前夜に睡眠不足の彼は疲労を訴え早退を上司に希望していたのだが、即刻却下したあげく酷使した、その血も涙もないティムに果たして後悔の念などあったのだろうか。
今年76歳になる主人の父も同じ戦争中に海軍の一員としてカリフォルニア駐在をしていたので、きっと同じくらいの年齢で、現在はベガスに住んで定年後の人生を送っているベトナム帰りの兵士である同僚のジムから、極めつけの言葉を聞いた事がある。オレンジ色のパレットの上に置き、フォークリフトやハンドジャックを使って移動可能な郵便仕分け箱「ゲイロード」と呼ばれる私の背の倍くらいの高さの大きなダンボールを全身を使い蹴り上げたり折りながらグループに分かれて作っていた時だった。
彼の着ていた黒いTシャツの背中にプリントされていた、彼が所属していた部隊の名前とその番号とロゴの下に『Dead Man Walking』と書いてあったのが気になったので、何故そう書いてあるのかを聞いてみた。赤い顔をした彼は酒臭い息で「俺たちは人を殺し過ぎたからさ。」と咄嗟に答えられ、「ふーん。」とは返したが、そのあと実に何も言えなくなってしまった。
この映画の中で主人公は相乗りさせてもらった軍曹との別れ際に、「人を死なせなければならない際には必ず誰かに目撃させるように。」と忠告される。その理由はただ「戦う」マシーン化してしまい見境なく人を殺す者が沢山居たからだった。実際にそのせいで、彼の戦地での友人であり危険を共にしたパートナーは、火の手から助け出したドイツ軍の敵にあっけなく刺殺されてしまう。そのやるせない最期を腕のなかで看取ったのは主人公だった。
私の同僚という人達も同じく、戦友を失い、生き残ってしまった自分、或いは人を殺めてしまった本人への良心の呵責に苛まれてしまうのだろう。その念から、心理的な痛みを抑える為に酒や薬物が常時必要になってしまった経緯も、同じ人間なのだから悲しいくらいによく分かる。戦地という巨大な荒波にものみ込まれず、奇跡的に命の尊厳の尊厳を維持し続け個人で最大の力を発揮したのがこの少年である。
そういえば、先日の『ジョイ』のパーティーでは久しぶりだったゴー君に「一騎当千っていう言葉知ってる〜?」とワタシの方を指差しながら聞かれたばかりだ。ひと昔前の自分だったら「お前の話を聞いているとまるで背水の陣」と三島の叔父から言われていたのに。
この主人公こそが、彼の戦友と同じく「殺すことよりもあえて助けること」を選んだ「人間としての尊厳」を体現した素晴らしいヒトである。それと同時に、この映画の監督、サム・メンデスに、実話を伝承した彼の祖父へと「1917」は捧げられている。