ゆる言語学ラジオ感想 赤ちゃん回
サポーターの熱量の圧倒されて数週間離れていたゆる言語学ラジオ。溜めていた分を一気見したら、やっぱり面白かった。
赤ちゃん回をまとめて視聴したのだが、個人的に一番興味が持てたのは、クリエイティブについて。
一度獲得してしまった規範をあえて外すクリエイターと、規範自体をまだ獲得していない小さな子供の発想が結果的に似た外観をもつという話。
例として、糠床をかき回すことを「耕す」と表現する子供の発言が取り上げられていた。
「耕す」行為自体は混ぜくり返すことだから、動作的には糠床をかき混ぜることとそう変わらない。
だが、耕すという言葉は、田畑などの土を対象とするという規範がある。
このことを知らないが故にその子供は糠床を耕すと表現したことになる。
そして規範を知っている大人からしたら普通は「耕す」という言葉は糠床に対して使う表現の選択肢に入らない。
その規範をクリエイターと呼ばれる人たちは、あえて一度外してフラットに見て、ほかの様々な要件から一番適切な表現をピックアップすることで、効果を生み出すということだ。
動画内で水野さんが言っていたように、元々全ての事象に境目などないというのは私も常々感じていることで、便宜上名前とその範囲を決めることで、いろんなことが捗るようになったと思う。
ただ、その規範が故に境界線や言葉のイメージに囚われて、見逃しがちなことも多々あるのだろうとも思う。
これを受けて思い出したのは糸井重里さんだ。
以前見たオリエンタルラジオのあっちゃんと糸井重里さんの対談動画で、糸井さんはほぼ全てのトピックについて、持論と共に例えを挙げていたのが印象的だった。
多分この人は具体的現象を一度抽象化して取り込んで、それを加工して、全く別の具体物に仕上げることができるのだろうと感じた。
そして、この抽象化と加工と具体化の作業をするテーブルになるべくたくさん事象を並べることができる人はクリエイティブ能力が高いのだろう。
小さな子供の発想についても、規制が少ないということは、我々一般的な大人だったら、別カテゴリーに入れてしまうところの枠を取っ払い、かなり広い範囲内において、別の事象同士からの共通項を見つけることができるという能力によるものなのではないだろうか。
ゆる言語学ラジオ内では、俳句や短歌などの文字数規制があるものについても言及していたが、これについてはさらに高度な方法だと思う。
俳句や短歌は規範を一度外してフラットに見た上で、適切なワードをピックアップして、さらに極限までそれを削り落としていくという作業ではないだろうか。
そして、最終的に厳選された17、あるいは31の音を残す。
その限られた音から風景や、心情、時には壮大なストーリーまで喚起させるって、、言葉を失う。これができるのって本当に天才だと思う。
言葉は結局、真実そのものにはなれず、所詮薄皮一枚隔てた所にしか存在し得ないものだけれど、だからこそ、その一語の持つ意味を超えて遥かに広がる世界観まで人々の心に想像させることもできるのだろう。