贈り物はモノで文化圏🎁お金vsモノ、この判断難しいと思うのわたしだけ?
こんばんは。
先日、親友を通じて翻訳のお手伝いを依頼された時の話。
わたしは休職中で実家にいて暇だったし、ぼけーっと読書とゲームをして過ごす日々を送っていた。
そんな中でおそらく頭を使うことに飢えていたのだろう、二つ返事で引き受けた。
翻訳の内容自体は難しくなかったが、日本と欧米のプレゼン技法の違い、ビジネスや研究発表の場で使うべき文章表現の違いなどを説明して訂正することなど、翻訳に必要な認識を擦り合わせることに時間を割いた。
アメリカ人の彼氏にも最後に文法チェックをお願いし、実質3時間はかかっただろうか。
お礼は何がいいかと聞かれて、わたしはなんでもよかったがイメージしにくかったので、
彼氏に、「スタバチケットとかアマゾンギフト券とか、あるいは雑貨とか食べ物とかのモノじゃないかと思うけど何がいい?」と聞いてみた。
彼は即答でアマギフがいいと言った。
何をもらったかは後半にとっておくが、袋を開けたわたしが最初に疑問だったのは対価だ。
すぐさま換算するあたりが、なんだかいやらしくて自分が嫌なのだが仕方ない。わたしにとっては労働だから。
正直、
別に3時間だし全然構わないのだが、実際にもらったモノの価格の倍くらいは期待していた。
わたしの時給換算でもそのくらいだし、
締め切りまで24時間を切った急な依頼だったこと、翻訳だけではなく内容の修正もあったことを考えると、実際にもらったモノのちょうど倍が妥当ではないかと思った。
こうして考えると、労働の対価、サービスの対価というものの考え方は個性が出るのかもしれない。
たまに過剰だったり、大概は過小なのかもしれない。
今回の翻訳は、お礼はいくらでもすると言われたので自分なりに最大限のパフォーマンスをした。
依頼主は、残業代や代休があるのかわたしの知るところではないが、親友曰く土日も働いているらしい。
わたしと違って、お金ではないところに労働の価値を見出しているのかもしれないと思った。
わたしは、個人の営業成績による査定という、要するに無料のインセンティブをぶら下げられても頑張れない。
学生時代のアルバイトの頃からそうだが、できるだけ効率化し、無駄を省いてさっさと帰るタイプだった。
だから、自分では高いのか低いのかわからない、あるいは年功序列だったら大して意味のない査定よりも、営業成績に基づいたインセンティブ給があればもっと頑張れたかもしれない。
わたしは自分のものさしで見合うと思った金額の分働くタイプだ。
学生時代のバイト先3つ、どこも友人は必要ないと思って作らなかったし、職場はものすごく同期での交流や職場の飲み会を重んじているが、わたしは食べたいものや、今月ピンチ!という時ではない限り断る。
だってやってもお給料変わらないもん。
まあ、特別素敵だと思う人はもちろん仲良くしているけれども。
人間そんなもんなのだ。
にんじんをぶら下げられれば、そしてそのにんじんがその人の好みであれば頑張るし、
そんなに好きなにんじんではなければそれなりの働きをするものなのだろう。少なくともわたしはそうだ。
話を戻すと、先日親友を通じて受け取ったのはアマギフではなかった。
曰く「日本人としては金銭授受に抵抗があってモノにした」ということだった。
はっきりとアマギフと言ったのにあえて違うモノだったのは驚いた。
いや、我々アメリカ人とアメリカかぶれの日本人カップルがはっきりしすぎているのだろうか…。
でもたしかに、よくよく考えてみると、
ご祝儀や香典はお金で渡すのに、そのお返しはだいたいモノだ。
最近はカタログも多かったりするが、それでも「カタログの中という決まった範囲のモノ」であることに変わりはない。
わたしは個人的には、
この名付けて「贈り物はモノで文化」は、贈られるモノ自体よりも「贈り物がそれである理由」を重んじているのではないかと考察する。
だから、お金を贈るのは理由なく贈られる「ただの対価」ということになり、相手を軽んじていると思われてしまうとかそういう発想に飛躍することもあるのかもしれない。
そう考えると、最近友人の結婚祝いの際に候補に上がったこのサービスも的を射ている気がする。
5品くらいのセンスのいいギフトから好きなモノを選んでもらえて、その要するにオンラインカタログに、これまたいい感じのテーマがついている。
贈る側は、そのテーマを選ぶところまでが仕事だ。
これは、何十種類も掲載されている従来の紙カタログよりもかなり絞られていて、いい感じのテーマという形で送り手のメッセージがついているもんだから、「贈り物がそれである理由」を重んじる文化にフィットしているような気がする。
個人的には、「これなら別にアマギフでも送り手のこだわりに大差はないんじゃないか?」などとつまらないことをまだ思ってしまうが、
実際にこれを使おうとしたときはわたしは心底楽しんでいた。
(最終的には贈り相手の友人がAmazonのほしい物リストを公開していたのでそこから選んだけれども。)
労働は、お金が対価でよくて
お祝いやちょっとしたお手伝いは、モノを贈る方がいい理由。
まだわたしには明確な理由はないかもしれない。
ひとえに状況による、としか今は答えがない。
お子さんが生まれた職場の方にはベビー用品ではなくアマギフを贈ったし、
今までも入学祝いやら何やらで百貨店のギフト券をもらったこともある。
だから、状況によっては結局はお金でも許される、というかむしろ歓迎さえされるのではないだろうか。
こうなってくるともう、ああ面倒臭い。
もう、ときどき電車の中で「降りる駅を座席の背後に表示するモニターが欲しい」と考えるのと同じように実現不可能だろうが、みんな欲しいモノのリストを堂々と公開してくれないだろうか。
ここからは贈り手としてのわたしの勝手な独り言。
わたしは、ほしい物を明確に言われたら、たとえそれがお金や何かの
ギフト券であってもそれを贈るし
わからなければ自分なりに相手が喜ぶだろうと思ったモノを何時間もかけて選ぶし、
ちょっとしたお土産やお菓子でない限り確実にメッセージカードをつける。
会えなければメッセージカードで、会えれば直接、
「どうしてそれをあなたに贈るのか」プレゼンする。
プレゼンと言ったらおおげさかもしれないが、
「こんなあなたにこれがぴったりだと思った」
「自分が使っていてこんなところがよかったからあなたにも贈りたい」
などと説明するだろう。
こうしてみると、わたしもすっかり「贈り物はモノで文化圏」の一員として、その文化を楽しんでいる。
あなたは「贈り物はモノで文化圏」の一員だろうか。
もし他の文化圏を知っているという方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたい。
それでは。
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