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#3 『家守奇譚』 不思議なものを信じること | 読書ノート

梨木香歩『家守奇譚』(新潮文庫、2008)

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主人公の綿貫征四郎は学生時代の友人、高堂の実家に家守として住んでいる。高堂はボート部に所属しており、湖でボートを漕いでいる最中に行方不明となった。
ある日、寝ていると物音がやけにうるさく、音源を探した。布団から頭を出して掛け軸を見やる。鷺が逃げ出し掛け軸の中は雨。ボートが一艘近づいてくる。乗っている男は高堂だった。

それはついこの間、ほんの百年前の物語。サルスベリの木に惚れられたり、飼い犬は河童と懇意になったり、庭のはずれにマリア様がお出ましになったり、散りぎわの桜が暇乞いに来たり。文明の進歩とやらに今ひとつ棹さしかねている新米知識人の綿貫征四郎と、庭つき池つき電燈つき二階屋と、天地自然の「気」たちとの、のびやかな交歓の記録――。

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舞台はおそらく明治〜昭和初期の日本。現代の価値観や雰囲気とは違い、何度か読み返さないと理解できなかったところもあった小説。その中で感じたことを記していました。ここからは過去の自分の言葉を引用しながら書きます。

この本に出てくる不思議な生き物たちは、「魑魅魍魎」というような怖い表現はどうもしっくりこない気がする。妖怪のようなものたち、庭のサルスベリや季節の植物、動物たちが当たり前のように主人公・綿貫に言葉をかけて接してくる。彼はいつも理解できず驚きつつも、そのことを全て受け入れている。分からないものを分からないまま受け入れる。恐怖の対象としない、もしくは解明しなければというわけでもない。

季節の催しとか動植物とか、それについての表現があまりにも多岐にわたり、複雑で、それでいて美しい。美しい言語だと感じる描写に溢れていて、単純にこの雰囲気に惹かれるものがあった。

リュウノヒゲ

「リュウノヒゲ」の章で出てきたナウマンさんには、歴史専攻者として思わずニヤリ。明治時代初期で有名な御雇外国人の学者の一人がナウマンさんです。実在しています。


綿貫が住む二階屋の隣の奥さんが「学者ってそんなもんですよ。土地の気脈ってものがまるでわかってない」「死んでいようが生きていようが気骨のある魂には、そんなことはあまり関係がないんですよ」と話すシーンがあって、近代の人々の風潮を感じる心持ちだった。存外、学者というものは真実を求めがちだが、近代以前の人たちはそんなことよりも信心の問題なのかもしれないなあ。


冒頭でも書いたけど、分からないものを分からないまま受け入れる。気骨ある魂として尊重し、踏み入れない。科学とは対照的な捉え方な気がします。興味深い。

葡萄

最後の「葡萄」の章が一番好きな話だった。

綿貫の親友である高堂は、「向こうの世界」(通称「湖の底」)に行きあちら側の者になれるという葡萄を食した。綿貫もその世界の者たちから、葡萄を食べて良いと勧められる。しかし綿貫は…

「拝聴するところ、確かに非常に心惹かれるものがある。正直に云って、自分でも何故葡萄を採る気にならないのか分からなかった。そこで何故だろうと考えた。日がな一日、憂いなくいられる。それは、理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅が私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で掴む理想を求めているのだ。こういう生活は(中略)私の精神を養わない」
「お心遣いは有り難いと思っています(中略)それどころかあなた方に憧れる気持ちさえある。さっきは少し、自分に酔い、勢いを付けなければ誘惑に負けそうだった。(中略)私には、まだここに来るわけにはいかない事情が他にもあるのです。家を、守らねばならない。友人の家なのです」
「そのことに気づいたのね」「よく覚えていて戻ってきた」


綿貫は食べられる状況であっても食べなかったのだ。自らそのことを選択した。そういう世界に行くのは羨ましいけど、自分を育てないから拒んだのだと言いに戻るシーンだ。この場面と、高堂の「(向こうの世界へは)覚悟があればいつでも行ける」という言葉がつながったような気がした。

この話はどこか、ジブリの映画「猫の恩返し」と似たところがある。

私、この映画が大大好きなんですよね。ここでいう向こうの世界は「猫の世界」。日がな一日ごろごろできる。主人公の女子高生ハルちゃんは猫に変身しそうになるところを、最後は自分の意志で人間の世界に帰るんだよね。

自分の時間を大切にすること、自分らしくいること、答えは全て自分の中にある。


少しまとまらないなあ。最後の解説に引っ張られた節がある。
再読する価値あり。

世界に存在するものと、自分との境界線が緩やかな世界観に惹かれる作品です。

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