『誰にもわかるハイデガー: 文学部唯野教授・最終講義』
(ざっくりサマリー)
・人は死ぬことによってしか自分の存在を定義することができない。
・生きているうちに死を了解することで、自分の過去や未来における関わりを同時に受け入れることになる。
(読んで欲しい人)
『存在と時間』で挫折した人。ページ数も少なくすぐ読めます。
(エッセイ)
はじめにおことわりしますと、私は『存在と時間』を随分昔に数ページで挫折して現在に至るので、この本がハイデガーの哲学を分かりやすく的確に解説しているかどうかは判断できず、あくまで唯野教授の講義を読んで感じたことをこれから書きます。
内容に入る前に、本には書かれていませんが、理解の補助線として、一つの挿話を書きます。それは、「分かる」と「分ける」は同語源と考えられているということです(これが真理であるかどうかはここでは問いません)。つまり、ある「A」のことを理解しようとすると、「Aであるイ」と「Aでないロ」の間に線引きをして「分ける」、そうした分けるプロセスを進めた結果、「A」と「非A」の境界線で作られた輪郭線で囲まれたその内側が、「A」であり、「Aを分けることでAが分かる」ということになります。
別の表現をすると、例えば「A」の具体例である「B」があったとして、その「B」に関する特徴をたくさん挙げた時、「β」という特徴がなくても「B」は「A」の一種であるとき、「βはAを構成しない」。逆に、「α」という特徴がなければもはや「B」は「A」の一種であるとき、「αはAを構成する」。そういった「Aを構成する」特徴と「Aを構成しない」特徴の境界線で作られた輪郭線で囲まれたその内側にある特徴群の総体が「A」であると言えます。(この考え方は本書の中に登場するフッサールのコップの話と同じだと思います)←ここまでが私の挿話です
では、一般的な人である、とある具体的な人を「A」に置き換えて、「A」という存在に境界線を引くことでAを分かろうとしてみます。ただ、「A」の物理的な境界線を考えると、それは大方皮膚であって、その内側が「A」であるという何も面白くない話になりますので、ここは物理空間ではなく時間で考えます。ここで考える時間を物理空間的に表現すると、線条的かつ一方向的な空間ということになります。つまり、線の上に2つのついたてを立てて、「ここまでが非AでここからがA」というのと「ここまでがAでここからが非A」ということができれば、その2つのついたてで分けられたその内側が「A」であることが分かります。
1つ目のついたては、だいたい産まれた時でしょうが、もう過去のものになっているので、それほど問題になりません。問題になるのは、まだ生きている「A」の未来のどの場所に2つ目のついたてが立てられるのかということが分からないということです。言うまでもなく、この2つ目のついたてというのが「イベントとしての死」です。
上の図で死のついたてをふにゃふにゃにしているのは、それがどこに立てられるのかが不確定だということを表現しています。このどこに立てられるか分からない「死」で分けられたこちら側というのが、言わば「A」が存在しているという特徴であり、この特徴のことをハイデガーは「現存在-Dasein」と呼びます。この「現存在」(Aが存在しているという特徴)と「A」はほとんど同じことなので、「現存在」は「人間」というような意味で用いられます。
人間は死ぬことによってしか定義しきれないということは、生きている人間は定義することができない。これが前半のポイントです。では後半はというと、壮大なことを言っているような気がしますけど、感覚としてピンと来ず、だからこそこれで理解があっているのか自信が持てません(しかも本書でも15ページで終わらせています)。
それでも何とか書くと、2つ目のついたて(死)がはっきりと立てられるならば、それはその人の存在を確定することであるから、その人の過去から未来まで、産まれてから死ぬまでの全てが確定されることであると言えます。これによって、過去未来にかかわらずその存在や行為に意味付けができることになります。死を確定させること(実際に死ぬことではありません)、未来の行為に意味付けができるということがどういうことなのかははっきりしません(論理上の話なのか、いかようにか実践出来る話なのか)。
骨子は以上ですが、本書では他者との関わりや、死から目を背ける生き方についての論考により肉付けされていて、そちらもかなり面白いです。唯野教授の調子の良い喋り口でハイデガーに触れられるとても興味深い本です。
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