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【感想】『ただしい人類滅亡計画』世界はゲームになれない

今日は最近読んだ本の話。


『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』品田遊 イーストプレス刊


結論から言うと非常に面白かったです。

世界を滅ぼす魔王に人類が存続すべき理由を説明するため、10人の人間が話し合い、結果的には反出生主義(反生殖主義の話の方が割合は高いのかも)について議論する……という内容の小説。

個人的にはものすごく読みやすかった。こういうことをやろうとすると、1つの結論が著者の中で用意されていて、そこに向かって出来レースのように会話をつむいでいくということになりがちだと思うのだが、これはきちんと議論をしていたというか、10人の独立性はしっかりあるように感じた。出した例えがあんまりパシッと決まっていなかったり、脇道に逸れたりもする。とはいえ、本当にただ10人の人間を集めてきたらここまでスムーズで積極的な議論はできていないと思うので、そのへんは1人の人間の中の思考から生まれたものならではの感じがして、その塩梅が心地よい。


ここからは本の内容の話と言うよりは読んで自分が考えたこと。だらだらと書きます。


反出生主義について考えると、結局のところ大きく分けて〈実存〉と〈善悪〉という2つの議論の川に集約されるように思う。

私はどちらかと言えば実存の方に興味があったので、本作の実存についての議論はそうだよね、と共感を持ちながら、善悪に関する議論についてはほほう!そういうことを人は考えるのですね、と新鮮な気持ちで読んだ。自我を得たばかりのロボットかよ。

反出生主義の重要な点は、その主張が倫理的に正しいという根拠に基づいて主張されるところにある。正しく生きるために導き出される答えが人類の絶滅だというわけだ。

私は反出生主義について強く反対するわけではないが賛成もしていない。理由としては、どうして正しく生きなければならないのか、ということについて納得していないので、その部分の説明がなされないままではこの議論のテーブルにもつけないから、というのが近い。

この小説で議論をする人間たちは、グレーを除き全員が、「正しく生きるべきだ」というルールベースの下で話をしている。それぞれの正しさの像が違うものの、その点は一致している。ゴールドも、「自分が得をする」ことを正しいと判断して、それに従っているのだ。

以前、「平和」というテーマで自分の意見を書け、という課題に、「戦争をしたいという人も、別に積極的に飢えたい、自分及び親兄弟を殺されたい、と思っているわけではない。皆がそれぞれ思う平和の形を持っていて、そのためにとった手段の部分で摩擦が生じているのだ、ということを意識しておかなければならない」というようなことを書いた。

これは半分ぐらい本気で、半分ぐらいは正しくないんだろうなと思っている。人間はそこまで論理的にできてはいない。理論上は損をする行動でも、本人がやりたくない行動でも、もしくは何の利益も損も生まない行動でも、なぜかそれを選ぶことはある。むしろそれが機械にできない人間らしい行為であるようにも思う。

ゲームは、全員が勝利したがっており、全員がその目的に向かって最短距離を取ろうとしているという前提があって成り立つ。他者がそうしていることを前提に計算して、各々が自分の行動を決定している。1人でも積極的に負ける行動を取っているプレイヤーがいたら、周りの戦略にも支障が出るのだ。

グレーがほとんど議論に加わらなかったのは彼がそういうルールに違反しちゃぶ台をひっくり返す存在になりかねないからなのだが、そうするとグリーンたる私もこのテーブルに座って何を言えるのかはまだ見つかっていない。


もう一つ、実存についての話題。

ここが小説という形態を取る上でのこの本のミソというか、一つのオチ、一応の結論をつけるために重要な部分なのでどうしようもないというかそこが最高だと思っている部分ではあるのですが……「魔王」という存在が実存についての議論を分かりにくくさせている部分はあるように思う。

つまり、人類が滅びてからっぽになった世界にも、ほぼ人類と同じレベルの思考ができる魔王という”実存”があるので、15話のような「人間が滅びた世界はいったい誰にとって”善い”のか?」の部分などででも魔王はいるじゃん……魔王は無の世界を観測できるじゃん……という気持ちが残る気はする。作中では気にせず、その議論は正しさが「発見」されたという説明で一旦終わるのですが……

私は小さいころから、なんでこんなふうに考え事をしている”自我”が存在しているんだ?ということが気になっていた。

私と何も考え事をしていない”物”の違いは何だ?いやもしかしたらこの”物”も何か考えているのかも?私が死んでも世界はあるのか?私という世界を観測する存在が消えたとき、世界は果たして存在していると言えるのか?世界が存続していったとして、それを私が観測できないのならあってもなくても同じことでは?

そういうことを小学生の頃からよく考えていた。たいていは実家のトイレで。なんか狭い空間ってそういうことを考えたくなりますよね。ならない?

そういうときに、どうしてこの自我を一旦消してそれを客観的に見ることができないんだろうということを本当にもどかしいと思った。目をつぶってじっとしていても、”私”が消えないのだ。頼んでもいないのに”私”はあるし、それを脱ぎ捨てることはできない。それはめちゃくちゃ気持ちの悪いことだ。自我を消滅させてみたい。でも消滅したらそれを観測できないので、できればそれを見るための自我はほしい。エンドレスエンドレス……

もしかしたらこの違和感をスライドしていった先に、反出生主義を支持したくなる気持ちというものがあるのかもしれないが、私はそれを倫理的に主張したいわけではないので、やはり何も言えないのだろうな。単純に興味。興味本位で私を捨ててみたい。

そんなことを考えながら楽しく読みました。まだ本家のベネターの『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』を読んでいないので読もうと思います。


今日はここまで。ありがとうございました。




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