2/25ー3/3:人生で最もテンパった7日間
2月24日ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まって、移住か半年が経ちようやく落ち着いてきた私たちのウクライナ・リヴィウ生活は崩れた。このウクライナ西部の要の都市が万が一危機に晒されるような事があるとすれば、それはウクライナが占領されてしまうか、第三次世界大戦が勃発してしまっている時だ、と当初は思っていた。そう、私はウクライナ移住前からリヴィウに移住を決めていて、その理由はいくつかあったのだが、その一つにはこういったGeopolitical的な要素も含まれていた。
本投稿文を執筆している4月1日現在も、リヴィウは数カ所軍事施設や補給施設を狙われたものの、市街地や民間人の犠牲はほぼ皆無で、比較的落ち着いている。国内避難民や国外脱出を試みる人達が集う場となっており、普段よりむしろ賑やかになっているらしい。
だが、そんなリヴィウに自信を持っていた私達は今ポーランドにいる。
何故こうなってしまったのか。それは単に戦争というものをわかっていなかったから。戦争というと戦闘機の飛行音や爆撃音、市街戦の銃撃戦、戦車やその砲撃音などをイメージするし、それらが一番恐怖を抱かせるものに間違いはないと思うが、それらが無くても十分に人々に恐怖を植え付けパニックを起こし、思考力が低下し正常な判断が下せる状態になくなる。
毎日、Twitterやその他媒体で戦況を確認したり、空襲警報音と夜間外出規制による静寂と暗闇を体験してると、日に日に心に余裕がなくなっていき、子供達も含めストレスが蓄積されていってるように思えてくる。加えて連日のように大使館や家族から出国を催促されたりNATOの動きを見て、何かもうリヴィウもそのうち絶対やられるとしか思えなくなってきて、更に追い討ちをかけるようにハルキウの市庁舎爆破、ベラルーシ参戦の噂、キーウの日本大使館一時閉鎖等のニュースが重なり、いつの間にか国外へ出るという選択肢しか自分の中ではなくなっていた。
妻はリヴィウは安全だと信じていて、しかも日本から移住してきた時の引っ越しがトラウマになるレベルで大変だったので、せっかく落ち着いてきたこの生活をどうしても手放したくないと思い、毎日抵抗していたが、またしても私が無理矢理皆を連れてウクライナ国外へ一時退避することを決めた。あくまで一時退避であり、落ち着いたらすぐ、2週間ー1ヶ月ぐらいでは帰ってくるよ、と言いくるめて・・・・。この時はまだ戻ってこない決断を後に下すとは考えてもいなかった。
侵攻開始翌日2月25日からウクライナ脱出を決意した3月3日までちょうど7日間の心境の変化は下記のpick upして時系列に並べた Tweet達で感じ取って欲しい。去ることを最終的に決意した3月3日、様子見にアパートから電車の中央駅までトラムで向かったその道中の美しい街景色が、今も頭からこびりついて離れない。
多分自分史上最もバズった投稿。確かに哀愁漂ってるけど、元々こういういい感じに寂れた公園だったんだよな・・・。Twitter分からん。
こうして3月3日に離脱を決心して、当日そのままバスの席取れるなら出てしまおうとも思っていたが、その日はいっぱいだったので、翌日3月4日のバスチケットを購入して帰宅した。
リヴィウ最後の夜は空っぽ。万が一バスがダメな場合のために、電車の中央駅の様子も見てくるとか言って、一人街を見納めに出て感傷に浸った後だったし、またあくまで一時退避であってすぐ戻ってくるつもりだったので何も考えないように努めた。実際ほぼ部屋も片付けずほぼ貴重品だけ、家族四人スーツケース一つだけでの退避だった。
次回、国外脱出当日編。
もっと記憶が新鮮なうちに書かないとダメですね、所々詳細忘れ始めてる。でも自分の当時のTwitter投稿を読んでいると、絶えずどこか緊張していた重い雰囲気を思い出す。今もこのままリヴィウに残っていたらどうなっていたのだろうか。空襲警報や夜間外出禁止にも慣れ、普段通りに生活できていたのだろうか。ただやっぱ保育園にも通わせられない、飲食店や娯楽施設も開かない状態で、集中して仕事しろ、は俺には無理だったろうな。
しかしリヴィウの全てが恋しい。実際まだ住んで半年足らずだったが、本当にいい街だった。旧市街は言うまでもなく群を抜いて美しく、都市のサイズの割に街がコンパクトで居住地もよく利便性抜群。徒歩5分圏内で大抵の用は済ませられ、大体の観光地も徒歩30分圏内。誇りが高く頑固だけど親切で思いやりに溢れた人々。側に近づくいて見るだけで魅了される数多の宗教建築物達。その他、全部好きだった。石畳だけでなくコンクリートも凸凹な道路も今となっては愛着しかない。まさか戻らない決断をするとはね・・・。