ウクライナ退避当日レポ

2月24日のロシアのウクライナ本格侵攻以降、落ち着かない日々を過ごしていた私たち家族は3月4日、リヴィウからポーランドのクラクフへ一時退避することを決めた。退避方法は前日まで悩んだが、費用は高いが確実に荷物を乗せて尚且つ座る事ができるバスを選んだ。ワルシャワとクラクフ以外の都市行きは売り切れか運行停止か定かでないが、チケットが買えなかった。クラクフを選んだ理由は、単純にリヴィウに近いから。2週間ぐらい様子見で、最大1ヶ月以内にはリヴィウに帰ってくる予定で、家族四人でスーツケース一つで飛び出した

国際バスターミナルに2時間近く前について出発の時をじっと待つ。妻と子供達は中で私は外でバスを待っていた。凍える程ではないけど、なかなか寒い日だった。

定刻通りバスが到着すると、入り口付近は大混雑。座席数分のチケットしか販売していないため、急がなくても必ず皆座れるはずなのだが、こういう緊急時になると人間の本性が出るらしく、皆我先にとバスの中へなだれ込もうとする。小さな子供を連れた女性を優先してくださいという、バスの運転手の叫び声が虚しく響く。私達は妻が娘二人を連れて先に搭乗して座席を確保し、私はスーツケースを預けてから最後に乗ることにした。
が、妻もパニクったおばちゃん達に押されて中々乗れない。私も後ろから押されなんとか流れに逆らおうと抵抗するが、抵抗すると目が血走った屈強な男達に睨みつけられたり難癖つけられて怒鳴られたりする。皆家族を見送りに来てて気が立ってるのは分かるので、ちょっと睨み返すぐらいにしとく。

スーツケースを無事バスに乗せ、多くの人が搭乗していったのを見て、もうそろそろと入り口に近づいて行ったら、後ろから初老のおばちゃんにタックルされる。流石に振り返って痛えよと文句を言ったら、近くにいた18歳前後のガキに難癖つけられてロシア語で罵られた。私も大人しいタイプの日本人ではないので、大人気なく英語でブチ切れ一足触発状態に。ドライバーに宥められ何もなく無事にバスに乗ったが、クソガキとは睨み合ったままだった。因みに何故かそのクソガキとはクラクフで何回も顔を合わせたが、残念ながら友情は生まれなかった

現地時間で午後7時半過ぎに二階建てのバスでリヴィウを出発する。
座席は2階の最前列、めっちゃ揺れるけど、前に誰もいなくまた景色がいい。ただウクライナ国境を越えるまでは全く安心できない、と皆口には出さないが表情に出ていた。

妻は隣で時たま泣いていた。なぜ平和なリヴィウを捨てて、これからどうなるかも分からない状態で、ポーランドまで行かなければならないんだ、との繰り返し。彼女の言うことももっともで、私も内心ではまだリヴィウが攻撃対象に、少なくとも陸上部隊が進軍してくるなんてことは無いだろうと考えていた。(事実4月13日現在でも数カ所軍事施設やインフラ関連施設が爆撃されただけ)
因みに出国を決めた前日の3月3日に、Twitterで前から仲良くしてもらっていた在ポーランド邦人の方を通じて、クラクフで滞在先を用意してくれるボランティア達とコンタクトを取って、運よくすぐ受入先を確保してもらってはいたが、本当にその先の事は考えていなかった。とりあえず戦時下でオファーをくれたウクライナの会社で繋いで、ウクライナへ戻るタイミングを伺おうぐらいのざっくりしたものだった。

勢いで強引にウクライナから妻と娘を連れ出してしまった事には、未だに罪悪感を感じている。そして日本での平和で安定した生活を全部捨てて、これまた半ば無理矢理家族を説得して、ほぼ裸一貫でウクライナに移住したくせに、リヴィウが好きだ好きだと叫びながらこじつけのような理由を並べてキーウではなくリヴィウに生活拠点を構えようとしたくせに、半年も経たぬうちに去る事になってしまった自分が情けなくてたまらなかった。ウクライナやリヴィウに対する後ろめたい気持ちは、今日現在も続いている。

バスが出発してから2時間もしないうちに国境近くに到達した。事前に国境超えるのにで丸一日近くかかるよという情報はもらっていたが、バスは専用レーンと言うこともありスイスイ進み、あれ?これ夜中にクラクフ着いちゃうんじゃない?困ったなー、なんて呑気なことを考えていた。そして出発から約10時間後・・・

ほら、やっぱりね。そう世の中思うようには行かない。ここからが辛かった。国境沿い、後2kmも無いところで完全にストップ。そして近づくにつれそこはゴミ景色へ。乗用車で来た人達は大体ここら辺で車を降りて歩いて国境まで進む。国境前は長蛇の列。ゴミと簡易便所から出る臭いが鼻を突く。徒歩難民用のテントや飲料物提供、炊き出しなども見られたが、バス越境者達は車内で待機。娘達にとては地獄だっただろう、暴れることもできず外にも出れずにただバス内でじっとしてなければいけない拷問状態。何度寝ては起き寝ては起きを繰り返しただろうか、ようやくウクライナ国境に到達。
パスポートコントロールがウクライナ側、ポーランド側両国側であるのだが、大型バスと言うこともあってかどちらもかなり待たされた。
ウクライナ側のパスポートコントロールは車内で、外国人だと何故かパスポートを一旦外に持って行かれるので不安になる。無事パスポートが返され、12、300m先のポーランド側の検問に行くが、この間も大分待たされた。ようやく自分たちのバスの番が来ると、全員バスから降りてパスポートチェック。当時は無かったけど、その後は荷物も全部おろして荷物検査も加わったらしい。待機所では軽食と飲み物が用意されていて、また普通のトイレもありようやく人々にも落ち着きの表情が見え始める。因みにちょうどこの時、取材依頼が2、3社からTwitterに来たが、誰がこの状況で答えたいだろうか。俺たちは別に戦場ジャーナリストでも記者でも無いし、明日のお金に困っていたわけでもないし(しかも無償)、何より今は落ち着きたいのに、、と言うことで無碍に断ってしまって申し訳なかったが余裕がなかった。
ここでも1時間ぐらい待たされた後、バスに戻りさらに数十分待ちようやくバスが動き始める。ポーランドだ。後の事は覚えてないが、起きたら既にクラクフ市内だった。無事中央駅隣のバスターミナルに到着し、10年超ぶりのクラクフを懐かしく暇もなく、ネット環境を探して彷徨う。ネットに接続してボランティアの方とコンタクトを取って迎えに来てもらい、住まわせてもらうアパートに到着しようやく安堵。リヴィウを出てから24時間が過ぎていた。

以上がロシアのウクライナ侵攻が始まってから国外脱出するまでになります。もっと記憶が新鮮なうちに書かないと臨場感が伝わらないですね。上記の最後のツイート通り、本当国境を越えた時は色々な感情が混ざって、最終的には「無」になった記憶があります。隣にいた妻は少なくとも無感情で、無感想でした。
戦争で一番許せないのはもちろん命に関わる物理的な攻撃ですが、私達を含め国内外で避難生活を送っている1000万人前後もの多くの人々の日常生活が、程度の差はあれ一瞬で壊されてしまっている事も同様に許し難いです。この記事を書いてる時点では落ち着きを取り戻しつつあり、国外からウクライナ国内へ戻るウクライナ人達も増えてきているとのことですが、ロシア軍が体勢を整えて、キーウを含む各都市にまた大規模な攻撃を仕掛けてくる可能性も懸念されており、まだまだ予断を許さない状況が続いております。

気が向いたら、今度はポーランドでの一時退避生活編を紹介したいと思います。Twitterでは素っ気なくつぶやいてましたが、ポーランドはウクライナ難民を本当に暖かく受け入れてくれています。現在いるドイツに来て更にそれを実感しています。ウクライナに何かあったら次は自分達という危機意識、ロシアの属国ベラルーシと国境を接している事もあり、他人事ではないのが大きいのでしょうが、それでも自国の総人口の数%にあたる200万人超の難民を受け入れて、彼らの生活支援を行うのは表には見えない想像を絶する大変さがあると思います。ウクライナは勿論、避難民を数多く受け入れている隣国への国際的な支援も、今後ますます必要になってくると思います。自分も生活が安定するまでまだ時間がかかりそうですが、少しずつできる範囲で支援を実践していきたいなと思います。



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