明治より前に「恋愛」という概念はなかった!?
突然ですが、「I love you」という英文を、皆さんはなんと訳しますか?
直訳すると「私はあなたを愛している」。単に「愛している」とか「あなたが好きです」とか、だいたいそんな感じの意味が考えられるでしょう。
いろいろな意訳も考えられますが、I love you を「月がとても綺麗ですね」と訳した人がいます。
明治の文豪・夏目漱石です。
I Love you の翻訳は「月が綺麗ですね」
夏目漱石は、日本語や漢詩のほか、英語も堪能でした。
(高等師範学校や東京帝国大学など英語教師を務める)
あるとき、教え子が「I love you」を「我君を愛す」と翻訳したのを見て「日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておけ」といった逸話が残っています。
※ ただし、小説などに書かれているわけではなく、実際にそうしたエピソードがあったのかどうかは定かではありません。
I love you が「月が綺麗ですね」って、一見するとなんのつながりもないし、意味不明です。
でも、日本人なら、なんとなく意味がわかるのではないでしょうか。
いかにも日本人らしさが出た奥ゆかしい表現というか、好意を抱いている者同士が直接向かい合って言葉を投げかけるのではなく、「月」という別の対象に仮託し、同じものを見て「美しい」とそれぞれが感じる(その共通の認識で意思疎通を図る)。
その裏側には「あなたと見る月だから美しい(と感じる)」「あなたと月を見ている、今のことの時間が楽しい(愛おしい)」といった心情が見てとれます。
「愛する」という概念はなかった!?
「恋愛」という言葉は、高校生や大学生のみなさんにとっては身近なものでしょう。
でも、この言葉は古い日本語にはなく、明治以降にできた言葉であるということはご存じでしたか?
では、明治まで人を愛する感情はなかったのか?というと、当然そういった話ではなく、日本の古典文学でも恋は重要なモチーフです。
それまでの日本では、一般的には「色」や「恋」で表現されていたようですが、その概念が現在の「恋愛」と同じだったかというと、そうではありません(「色恋」はどちらかというと、吉原などの芸者さんたちとの惚れた腫れたを指す)。
では、なぜ日本に「恋愛」という概念がなかったのかというと、一言でいうと自由恋愛が一般的ではなかったからです。日本の場合、「家」の存在が強く、結婚相手もほとんどの場合が自分で選ぶことはできませんでした。
つまり、夫婦に関しても親が決めた「生活共同体」という意味合いが強く、現代の私たちが認識する「恋愛」という感情とは大きく違ったと考えられます。
明治期に漢字に翻訳された西洋の概念
江戸幕府が倒され、明治政府が設立し、新しい国をつくるべく、西洋列強に追いつけ追い越せということで、いゆる「文明開化」が起きました。
その折に、「恋愛」だけに限らず、それまでの日本にはなかった西洋のさまざまな考え、概念が入ってきました。
例えば、
科学 science
哲学 philosophy
社会 society
などで、どれも今では日常的に使われる言葉なので「それまでになかったの?」と思う人もいるかもしれませんが、どれも明治期に外国語からの翻訳として作られた言葉になります。
哲学という言葉の場合
例えば、philosophyを「哲学」と翻訳したのは、オランダ留学から帰国した西周(にし あまね)です。
西は、哲学以外にも「知識」「概念」「意識」「心理学」など、多くの訳語を創り出しました。
明治になって西洋の知識や技術が数多く日本になだれ込み、当時の知識人たちはそれまでの日本にはないモノや概念に対して、日本語を当てはめる必要があったわけです。
実際に、「哲学」も翻訳者や文献によっては違った訳語が当てられ、今ではすたれてしまった「理学」「窮理学」「希賢学」「希哲学」といった言葉が使われていたりもしました。
言葉として認知することで概念が生まれる
言葉として流通していなかったということは、当時の人々には、例えば「社会」や「科学」といった概念はなかったということになります。
もちろん、「恋愛」の事例でも見たように、概念がなかったからといって、当時の人にそのような考えや思い、認識がまったくなかったのかというと、そうではありません。
ただ、自身が感じてる事象を指し示す言葉がないと、自分が今感じている気持ちや認識、状態がどういったものなのかが、ぼんやりしたものになります。
逆にいうと、言葉が付与されることによって、対峙している事象が明確になります。つまり、概念として浮かび上がってくるわけで、それが「言葉」の魅力、すごさ、と言うこともできるかもしれません。
さいごに
I love you を「月が綺麗ですね」と訳すには、大きな飛躍があります。
例えば、中学校のテストで「次の英語を日本語に訳しない」というテストに出てきたとして、上記のような解答をしたりしたら、少なくとも「〇」はもらえないでしょう。
一方で、私たち日本人には、そのニュアンスがわからなくもありません。
これが言葉の、日本語の面白いところで、そうした視点を持つことで英文の翻訳、また日本語を英語にする際に、これまでになかった発想が生まれることがありるかもしれませんね。
そんな言葉の可能性を、英語と日本語の双方から追求するのが国際日本学科の学びでもあります。
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